高積神社

和歌山市にある神社 ウィキペディアから

高積神社map

高積神社(たかつみじんじゃ、正式名称:髙積神社)は、和歌山県和歌山市禰宜にある神社式内社名神大社または小2社)論社で、旧社格村社

概要 髙積神社, 所在地 ...
髙積神社
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神社が鎮座する高積山
所在地 和歌山県和歌山市禰宜1557
位置 上ノ宮
北緯34度14分5.04秒 東経135度15分41.42秒
下ノ宮
北緯34度14分2.19秒 東経135度15分17.06秒
主祭神 都麻都比売命
五十猛命
大屋津比売命
社格 式内社名神大論社
式内社(小2社)論社
村社
創建 不詳
本殿の様式 流造
別名 高社・高宮・高御前
例祭 上ノ宮:4月15日
下ノ宮:10月10日
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高積山(標高237メートル、通称:和佐山〈わさやま〉)の山頂に上ノ宮、山麓に下ノ宮が鎮座する。別称を「高社」「高宮」「高御前」「高三所明神」とも。

祭神

祭神は次の通り[1]。「高三所」の別称は主祭神3柱に因むが[2]、この3柱説は江戸時代に成立したと見られている[3]

主祭神

配祀神

  • 天照皇大神、須佐男命、八王子神
  • 大山祇神、気津別神、応神天皇
  • 神功皇后、比賣大神

歴史

要約
視点

概史

創建は不詳。当社には『延喜式神名帳紀伊国名草郡に「都麻都比売神社 名神大 月次新嘗」として載る名神大社、または「高積比古神社」「高積比売神社」として載る式内小社に比定する説がある[3]

「都麻都比売神」としての史料の初見は『続日本紀大宝2年(702年)の記事[原 1]において、伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社を分遷したという記事である[2]。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒[原 2]では、紀伊国の「都麻頭比売神」に対して13戸が給されている[2]。関連して、承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では紀伊国名草郡に「津麻(津摩)郷」が見えるが、これは「津麻神戸」を意味するとされる[2]

神階としては、貞観元年(859年)に伊太祁曽神・大屋都比売神とともに「神都摩都比売神」として従四位下に昇った[2]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では紀伊国名草郡に「都麻都比売神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている[2]。『紀伊国神名帳』では天神として「従四位上 都摩都比売大神」と記載されるが、正一位に昇った伊太祁曽大神とは神階が開いた[2]。なお、同帳では関連して「従四位下 妻都比咩大神」の記載が見える。

日前神宮・國懸神宮と和佐荘との間で起こった水論日前国懸神宮と高大明神の用水相論)での永享5年(1433年)の言上状では、高積神社が古くは日前宮の地にあったといい、のちに鎮座地を移って山東、のち和佐山へと遷座したとする伝を載せている[2]。この伝には『続日本紀』大宝2年(702年)の記事とも一致が見られることから、『紀伊続風土記』では高積神社が都麻都比売神社である可能性が高いとしている[2]。この水論では和佐荘側に当社が擁立されており、当社は日前宮に対抗出来るだけの権威を有していたとされる[2]

上記の一方、当社には式内社「高積比古神社」「高積比売神社」を比定する説もある。この説を最初に述べたのは『紀伊国名所図会』であるが、同書では祭神3柱を高津比古神・高津比売神・気鎮神であるとしている[3]

明治6年(1873年)に入り、近代社格制度では村社に列した[3]明治43年(1910年)には気鎮神社をはじめとして和歌山市和佐地区内の10数社を合祀した[2]

神階

  • 「都麻都比売神」に対する神階奉叙の記録
    • 貞観元年(859年)正月27日、従五位下勲八等から従四位下勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「神都摩都比売神」。
    • 従一位上 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「都摩都比売大神」。「従四位上」の誤記か。
  • 「高積比古神」に対する神階奉叙の記録
    • 従四位上 (『紀伊国神名帳』)
  • 「高積比売神」に対する神階奉叙の記録
    • 従四位上 (『紀伊国神名帳』)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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