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高 淹(こう えん、? - 564年)は、中国の北斉の皇族。平陽靖翼王。高歓の四男[1][2][3]。母は穆氏[4][5][6]。字は子邃[1][2][3]。
東魏の元象年間、平陽郡公に封ぜられた[1][2][3]。并州刺史をつとめ[7][8]、尚書左僕射に累進した[1][2][3]。天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高淹の爵位は平陽郡王に進んだ[9][10][11]。7月に尚書令に任じられた[9][12][13]。天保5年(554年)8月、録尚書事となった[14][15][16]。天保10年(559年)11月、司空に上った[17][18][19]。乾明元年(560年)2月、太尉に転じた[20][21][22]。皇建元年(560年)8月、太傅となり[23][24][25]、彭城王高浟・河間王高孝琬とともに仗身・羽林100人を給された[1][2][3]。太寧元年(561年)11月、太宰に転じた[26][27][28]。河清元年(562年)2月、青州刺史・太傅・領司徒に転じた[29][27][28]。7月、太宰[30][31]となった。河清3年(564年)12月[32][33][34]、晋陽で死去した。一説に毒殺されたともいう。遺体は鄴に葬られ、仮黄鉞・太宰・録尚書事の位を追贈された[1][2][3]。
高淹の妻の馮娑羅(ふうばら、532年 - 553年7月15日)は、北燕の馮氏の後裔で、平陽王妃となり、諡を昭といった[35]。
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