大理国ていた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子の高泰明(中国語版)に、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。
段正厳高泰明に命じて平定させた。高泰明の四子の高明清を鄯闡鎮守に任じた。高泰明が亡くなると、国師に追封した。高泰明の子の高智昌が流罪の末に没すると、その部下の伊氏と何氏が報復のために弑逆を図った。事は露見して失敗したが、段正厳はふたりの義を褒めてこれを許し、義士塚を建てさせた。高泰明の子の高泰
段正淳せいじゅん)は、大理国の15代国王(後大理国としては初代)。保定帝の弟。 1094年、保定帝が高昇泰に王位を簒奪され、国号は大中国と改められ、大理国はいったん消滅した。1095年、高昇泰が病没する直前に子の高泰明に対し政権を段氏に返還することを命じ、これにより段正淳が即位した。段氏政権が中断した後に王
山口泰明山口 泰明(やまぐち たいめい、本名:やまぐち やすあき、1948年11月10日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、外務大臣政務官(第1次小泉内閣)、内閣府副大臣(第3次小泉改造内閣)、衆議院外務委員長、自由民主党選挙対策委員長などを歴任。 埼玉県比企郡川島町生まれ。日本大学第二高等学校、
大中国高昇祥(中国語版)を鄯闡府(現在の昆明市)に、自身の幼い息子である高泰賢を永昌府(保山市)、高泰運(中国語版)を騰衝府(騰衝市)、高泰慧を鄯巨府(永勝県)に、それぞれ封じた。 1096年、臨終を迎えた高昇泰は、雲南諸部が自身の治世に反対していることを理由に、息子の高泰明