高句麗高句麗侯騶(すう)に出兵を命じた際には、騶がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという。更に王莽は高句麗の国名を「下句麗」として卑しめた。この騶が名前と具体的な行動が伝わる最古の高句麗の人物である。王莽が倒され光武帝によって後漢が開かれると、「下句麗」侯は西暦32年にこれに朝貢し、高句麗王へと戻された。
瑠璃明王『漢書』巻99・王莽伝には高句麗侯騶(中国語版)(すう)という人物が登場する。 始建国4年(後12年)、新の王莽が匈奴征伐のため高句麗に援軍を要請した。騶はこれを拒み続けたが、王莽は脅迫して高句麗に援軍を出させた。いざ決戦となった時、高句麗兵は逃亡し法を犯した。王莽は高句麗兵の罪を騶の責任だとして追及し、騶
中国朝鮮関係史12年 王莽が高句麗王騶を殺し(瑠璃明王#中国史書の記述)、高句麗を下句麗とする。 32年 高句麗が後漢に入貢し、王と称する。 167年 玄菟太守の公孫琙が高句麗を討つ。 204年 公孫氏が帯方郡を置く。 238年 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配。 244年 魏の毌丘倹が高句麗の都である丸都城(現在の集安市)を占領。
荘尤始建国4年(12年)、王莽は高句麗に匈奴討伐を命じたが、高句麗軍はそれを望まずに退却し、退却を阻もうとした遼西大尹の田譚は高句麗軍に殺害された。王莽が怒って高句麗を討伐しようとすると、荘尤は高句麗を赦すよう進言したが、王莽は聞かず、荘尤に高句麗討伐を命じた。荘尤は高句麗侯騶を討ち取り、その首級を長安に送っている。
孫皓文字に対応するためという理由で大赦が実行された。 天紀元年(277年)夏、夏口督の孫慎が江夏から汝南に軍を進め、焼討ちをかけて住民を略奪して帰った。騶子出身の張俶が誣告や讒言により昇進して司直中郎将となり、侯に封じられるなど孫皓の寵愛を受けていたが、この年に、それまでの悪事が発覚し誅殺された。