露梁海戦露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。 露梁津(朝鮮語版、中国語版)は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍(朝鮮語版、英語版)の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の文献
李舜臣李舜臣は13隻の艦船で鳴梁の狭い道で荒い流れを利用して守ると、道が狭いために日本水軍は全て突入できず133隻の船を投入した。 この133隻のうち31隻が破壊された(鳴梁海戦)。しかし、後続の日本水軍は質・量ともに強大なため、海戦の夜には鳴梁海峡
順天城の戦い小西ら五氏の窮地を知った、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、小早川秀包、筑紫広門、寺沢広高、宗義智らは、水軍を編成して順天へ救援に向かい、11月18日、露梁海峡で明・朝鮮水軍と激突したのが露梁海戦である。小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島純玄、大村喜前の五氏は戦いの間隙を縫って脱出に成功し、11月25日、島津義弘らとともに釜山を出帆して帰国を果たした。
宗義智た。これをみた宗義智は、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、寺沢広高らとともに水軍を編成し順天に救援に向かう。このとき露梁海峡(朝鮮語版、中国語版)で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と交戦した(露梁海戦)。小西行長らは、この戦いの間隙をぬって脱出に成功。義智は小西行長らとともに釜山を経て帰国を果たし、前後7年に及ぶ朝鮮出兵は終結した。
鳴梁海戦鳴梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉の慶長の役により慶長二年(1597年)9月16日(和暦/以下同)に陸に呼応して西進した日本水軍と朝鮮水軍(朝鮮語版、英語版)との間に起こった海戦。李舜臣の指揮する朝鮮水軍が日本水軍の先鋒の来島勢に大きな損害を与えた。しかし残存兵力の少ない