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和歌山県那智勝浦町にある寺院 ウィキペディアから
阿弥陀寺(あみだじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある真言宗御室派の寺院。山号は妙法山。本尊は阿弥陀如来。那智山の一角をなす妙法山の中腹にある。
阿弥陀寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270-1 |
位置 | 北緯33度39分20.68秒 東経135度53分12.92秒 |
山号 | 妙法山 |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 伝・大宝3年(703年) |
開基 | 伝・蓮寂上人 |
文化財 | 大師堂(県文化財) |
法人番号 | 7170005005475 |
寺伝では、大宝3年(702年)、唐の僧・蓮寂が法華三昧を修し、法華経を書写して山頂に埋経し、その上に釈迦如来を安置したのが今日の奥の院の基とされ、これを開創であるとする(『紀伊国名所図会』熊野篇)[1]。近世紀州藩の編纂した地誌『紀伊続風土記』は、阿弥陀寺は空海の開基であるとし、平安初期の弘仁6年(815年)に妙法山を訪れ、釈迦如来を本尊として開創したとする。『紀伊続風土記』はその典拠として寛文年間の寺記を参照し、貴賎男女を択ばず納骨を受け入れた諸仏救世の道場であったこと、女人高野と号されたことを伝えている[1]。しかし、この空海開基説は「貴賎男女を択ば」ないことが女人高野の連想を生み、そこから後世に付会されたものとするべきものであり、歴史的な開創年代は奈良時代ごろであると考えられている[2]。
奈良時代の唱導説話集である『日本霊異記』に、法華持経者の永興禅師とその同行の禅師が熊野の山中で捨身行に臨み、骸骨のみの姿になっても、その舌のみは依然として生前と同様に法華経を誦し続けていたと伝えているが、この山とは那智山中の妙法山であると言われている[3]。また、『本朝法華験記』に見える「奈智山応照法師」の伝は、応照という法師が火定による捨身入滅を果たしたとし、火定炉跡が阿弥陀寺境内に残されていることから、この「奈智山」は妙法山に比定される[4]。こうした点から、妙法山に集って過酷な捨身行に勤しんでいた法華持経者によって阿弥陀寺は開かれたと考えられている[5]。その後、鎌倉時代の弘安3年(1280年)に鷲峰山興国寺開山の法燈国師覚心の再興により(『元亨釈書』)浄土信仰の今日の阿弥陀寺が確立されただけでなく、念仏と納骨の山としたと見られており[2]、史料上、阿弥陀寺の存在が確実なのはこの時期からである。
永正6年(1509年)、本堂から奥の院(浄土堂)への山道の途中に大師堂が建立された[6]。慶長6年(1601年)の検地に際しては、新宮城主浅野氏より5石が寄進され、以後、代々にわたって続けられた。
明治時代に一時期衰えたが、1884年(明治17年)に再興された際に真言宗寺院に転じた[1]。1981年(昭和56年)、火災により本堂が焼失し、慶派作の本尊阿弥陀如来を含む多くの寺宝が失われた。現存する本堂と本尊は、1984年(昭和59年)に再建されたものである[1]。2014年、高野山真言宗から真言宗御室派に転じた[7]。
那智山の一角に在する阿弥陀寺は、熊野の民俗や信仰とも深い関わりを持っている。
覚心は臨済宗興国寺派の宗祖として知られるが、念仏だけでなく真言をも修し、高野聖のなかでも萱堂聖の宗祖でもある[2]。阿弥陀寺は近世中期まで、那智山の諸堂の造営・修覆にあたる那智七本願の一角を占めたが、阿弥陀寺に属する勧進聖の組織は覚心が阿弥陀寺を再興する際に築いたものと見られている[6]。熊野三山の勧進を担った熊野山伏や熊野比丘尼による唱導の際に絵解きされた那智参詣曼荼羅や熊野観心十界曼荼羅は妙法山をモデルにしたと言われ[1][6]、那智参詣曼荼羅には妙法山詣が描かれている[2]。
妙法山はまた、熊野における特異な葬送民俗伝承[8]との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は、枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を手にして妙法山に参詣し、鐘をつくとの伝承(『紀伊続風土記』)[9]から、阿弥陀寺の鐘は「亡者の一つ鐘」と呼ばれ、「人なきに鳴る」と称される[6]。奥の院周辺はとくに樒山(しきみやま)とも呼ばれるが、この名は死者が携えてきた樒が奥の院周辺に落とされるとの伝承によるものである[10]。
こうした民俗伝承は、覚心による再興後の阿弥陀寺が山岳霊場となり、念仏と分骨・分髪の寺院となったことと関係しているが、分骨・分髪や死者供養の習俗は今も続けられている[9]。
阿弥陀寺には本尊(阿弥陀如来)の御詠歌が伝えられており、本堂正面にその額が掲げられている。
「 | くまの路をもの憂き旅とおもふなよ 死出の山路でおもひ知らせん (大意:熊野への旅路を気乗りのしない旅路だなどと思ってはいけない。死へと旅立つ山路で、阿弥陀如来があなたに熊野参詣のありがたさを教えてあげよう) |
」 |
熊野が巡礼地として確立する中世において、熊野は阿弥陀如来の顕現する地、すなわち来世・浄土と考えられており、そこへの巡礼は象徴的な意味での死と再生であった。中世熊野信仰における熊野観を伝える一篇であると言えよう。
前述の「亡者の一つ鐘」の鐘楼。現世安穏と先祖菩提のために、生前に1度は撞いておくべきことが勧められている。現存する鐘は、延宝6年(1678年)の再鋳である[13]。那智勝浦町指定有形文化財(美術工芸品)である[12]。
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