Loading AI tools
ウィキペディアから
かつては、氏が阿倍で、名が内麻呂(倉梯麻呂)と見られていたが、阿倍内鳥の子とみなして、氏は阿倍内(阿倍倉梯)の複姓で、名は麻呂と考えられるようになった[2]。なお、内は内廷との関わりを[3]、倉梯は大和国十市郡の地名(現在の奈良県桜井市倉橋)を示す。
推古天皇32年(624年)大臣・蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求した際、内麻呂と阿曇氏(名不明)が遣わされて天皇へ要求に関する上奏を行った。
しかし、推古天皇はこの要求を拒否している[4]。
推古天皇36年(628年)推古天皇が崩御すると田村皇子と山背大兄王が有力な皇位継承候補となった。大臣・蘇我蝦夷は当初独自に皇嗣を決定することを欲したが、群臣が承服しないことを恐れて内麻呂と議して自邸に群臣を集めて饗応した。散会しようとした際に内麻呂は皇嗣に関して以下を語った。
これに対して、大伴鯨・采女摩礼志・高向宇摩・中臣弥気・難波身刺が田村皇子を支持する一方で、許勢大摩呂・佐伯東八・紀塩手は山背大兄王を支持し、蘇我倉麻呂は返答を保留するなど、群臣の意見が折り合わず、この場で皇嗣を決めることができなかった[5]。
皇極天皇4年/大化元年(645年)中大兄皇子と中臣鎌子により蘇我入鹿が暗殺され、その父・蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡した(乙巳の変)。皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位して新政権が発足する。左大臣には内麻呂が、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ[6]、内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また娘の小足媛を孝徳天皇の妃とし、有間皇子を儲けていることから新政権の中枢に加えられたと考えられる。内麻呂と石川麻呂は天皇から各々金策(金泥で書いた冊書)を与えられるとともに[7]、政治に関して以下の詔を受けている。
大化4年(648年)2月に内麻呂は四天王寺に四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)を招いて、仏像4体を迎えて塔内に安置させ霊鷲山の像を造るなど、法要を執り行った[9]。同年4月には前年に制定された新冠位制度(七色十三階冠)に伴って古冠が廃止されたが、内麻呂・石川麻呂の左右大臣は引き続き古冠の着用を続けた[10]。
大化5年(649年)3月17日薨御。孝徳天皇が朱雀門まで来て哀悼し、皇極上皇や皇太子(中大兄皇子)を始め群臣が付き従って哀哭したという。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.