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庲降都督として馬忠・張表の後任として蜀南部の統治を行ない、長年に亘って業績をあげ、職務に熱心であったとされるが、馬忠の風格・功績には及ばなかったとある。その後、右大将軍に遷った。延熙20年(257年)頃、呉の朱績が魏を牽制するよう蜀に求めてきた。このため、閻宇が右大将軍[1]の地位のまま巴東に都督として派遣され、5千の兵で白帝城を守備し、太守の羅憲を副将とした。
その一方で閻宇は黄皓と結託し、北伐中の姜維と自分を交代させようと画策した。黄皓以外にも諸葛瞻・董厥らは、勝機無き北伐の連続で国内を疲弊させたということを理由に、姜維を召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うよう劉禅に上奏すべきと考えていた。蜀の長老の話に拠れば、諸葛瞻は実際に姜維と閻宇を交代させるよう上奏したとされる[2]。
景耀6年(263年)、魏が侵攻してくると閻宇は召還を受け、羅憲に2千の軍勢を委ねた上で西へ引き返した。その後の消息は不明である。
小説『三国志演義』では、碌な功績もないのに黄皓に諂って、右将軍の位を得ている。姜維に取って代わろうと考え、姜維を召還させるよう黄皓を唆すが、魏の鄧艾が強敵であると聞くと、沙汰止みとなっている。
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