長沼流
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信濃国松本藩士・長沼澹斎によって編み出された兵法・軍学の流派で、長沼流兵法、長沼流軍学の名で知られている。澹斎は父・長政の主君・松平直政の転封に従い、出雲国松江藩、播磨国明石藩を転々とするが、美濃国加納藩で成人し、日本兵法の諸流、明代の中国兵法を学んだ。
寛文6年に『長沼流兵法兵要録』が発表され、同時代の山鹿素行による山鹿流と並ぶ新兵法学の双璧として江戸で名が知れ渡った。
『兵要録』では練兵関係が多く著述され、『握奇八陣集解』では、「兵義なきなれば人心和し、天心応ず」という義兵論に主張の中心があった。山鹿素行と異なるのは、根底に朱子学的理念が流れている点だと石岡久夫は指摘している[1]。
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