長尾能景
越後国の戦国大名。越後長尾氏6代。越後守護代。 ウィキペディアから
略歴
寛正5年(1464年)、長尾重景の子として誕生。越後守護である上杉房定・房能の二代に仕えた[3]。房定の死後、事実上越後の実権を握り、守護の権力強化を目論む房能とはしばしば対立したが、名目上はあくまで守護代の立場に留まっていた。永正元年(1504年)の立河原の戦いで大敗を喫し、危機的状態にあった房能の実兄である関東管領・上杉顕定を救援するために関東地方に出兵し、疲弊した扇谷上杉家の上杉朝良を攻撃する。
永正3年(1506年)9月、能景は畠山卜山の要請を受けて一向一揆との戦いのため越中国へ出兵するが[4]、般若野の戦いで戦死した。越中守護代・神保慶宗の裏切りによるとされる。
書状
脚注
参考文献
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