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金 俊(キム・ジュン、? - 至元5年12月21日(1269年1月24日))は、高麗の武臣・権臣である。元々の名前は金仁俊で、武臣政権の第9代執権者であった。
崔忠献(チェ・チュンホン)の家奴だった金允成の子として生まれた。崔瑀(チェ・ウ)に推薦され、崔沆に仕え、殿前承旨などに命された。
高宗44年(1257年)、崔沆が死ぬと、子の崔竩(チェ・ウィ)が務める執権に不満を抱き、高宗45年(1258年)3月、林衍(イム・ヨン)・柳璥・崔昷らと共に三別抄を使って崔竩を暗殺した。
崔氏政権を打倒して王権を回復させた功労により、正四品の将軍として衛社功臣の称号が与えられた。元宗元年(1260年)、衛社功臣の序列を改正し、柳璥を第5位に退けて、代わりに金俊を第1位に押し上げ、枢密院副使となった。元宗5年(1264年)、教定別監に任命され、国家の非違の糾察と国使観察を担当した。続いて門下侍中になり「海陽侯」に奉じられて、かつての崔忠献になぞらえて権勢をふるった。
元宗9年12月(1269年1月)、国王の親モンゴル政策に反対したため、側近の林衍に暗殺された。
先代 崔竩 |
高麗武臣政権の執権者 1258年-1268年 |
次代 林衍 |
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