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金井 喜久子(かない きくこ、1906年3月13日[1] - 1986年2月17日 [1])は、日本の作曲家。旧姓は川平(かびら)[1]。
沖縄県宮古郡(現・宮古島市)[1]で生まれた。父の川平朝儀は沖縄県議。8歳の時には琴を、10歳の時には琵琶を学んだ。沖縄県立第一高等女学校在学中の13歳のときにヴァイオリンを学び、卒業後、1927年日本音楽学校に声楽を学び、卒業後、沖縄音楽を広く知らしめるという志を抱いて1933年に東京音楽学校の作曲科に女性として初めて入学。下総皖一および呉泰次郎に師事した。1936年に同校を卒業後、研究科に進み、1938年に修了した[1]。なお、東京商大のトロンボーン奏者・金井儼四郎(1909年-2000年)と1932年に結婚し、金井喜久子を名乗る。
卒業後は引き続き呉泰次郎に和声学を7年間学び、尾高尚忠には1940年から4年間管弦楽法を、1947年から平尾貴四男には対位法などを4年間学んだ。1940年には日本女性としては初の交響曲第1番を3楽章まで作曲、同年12月20日に日比谷公会堂で自身の指揮で中央交響楽団 (現・東京フィルハーモニー交響楽団) により演奏したが、終楽章はピアノスケッチのみで終わり(2005年に高良仁美が初めて録音・リリースした)、以後演奏することはなかった。この作品は後の民族的な作風ではなく、呉から仕込まれたドイツ・ロマン派風の作品だったことが、金井が忌み嫌って封印した原因と思われる。なお、同曲の初演時の3楽章までの録音は近年発見され、キングレコードから歌曲集と共にリリースされた。2011年には浄書譜が製作されている。
1944年には尾高尚忠の指揮、東京交響楽団によって第1回交響作品発表会を開いたほか、1946年、1947年にも第2回、第3回交響作品発表会を開いて自作品を発表した。1950年からは「白檮会」の結成に加わり、作品発表を精力的に行った。
また1954年にはブラジルのサンパウロで行われた第7回国際民族音楽会議に日本代表として出席し、同地でハンス=ヨアヒム・ケルロイター(Hans-Joachim Koellreutter)に3ヶ月間十二音音楽を学んだ。
1956年にはマーロン・ブランド出演の映画『八月十五夜の茶屋』の音楽を担当した。
1971年には「じんじん」でレコード大賞童謡賞を受賞[1]するなど、数々の作品を発表。沖縄民謡を採譜した「琉球の民謡」を出版し、執筆活動でも功績を残した。1986年に東京で没。
作風は生地の沖縄の伝統音楽に基づいた風趣を前面にしたものであり、「民族的」な香りの強い作風である。
近年、遺族が所蔵していた大量の自筆譜[2]の調査・録音により再評価が進んでいる。
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