黎朝Dung)に朝廷軍の指揮を委ねると、莫登庸の専横が強まり、その専横に身の危険を感じた昭宗は宮城を脱出、西京(清化)の鄭綏 の下に身を寄せた。 莫登庸は昭宗追跡の軍勢を差し向けると同時に、昭宗の弟の恭皇を擁立した。こうして恭皇を推す莫登庸と、昭宗を推す鄭綏 の間での抗争となった。この抗争は莫登庸が有利に戦いを進め、1525年には昭宗を軟禁
黎昭宗 都の昇龍(タンロン)を陥落させ、陳朝の復興を称して天應と改元した。この反乱は鄭 惟㦃・阮弘裕・鄭綏 ・陳真らによって平定されたが、戦闘に際して鄭 惟㦃は戦死し、鄭綏 と阮弘裕で対立による軍事衝突が発生、この事案に介入した陳真が鄭綏 に与して阮弘裕を駆逐し、そのまま朝廷の実権を掌握する。
莫登庸 力を掌握した。また同じく陳暠の反乱鎮圧に功のあった鄭綏 (中国語版)(黎朝開国の功臣鄭 克復の末裔)と阮弘裕(中国語版)(丁朝の宰相阮匐(中国語版)・黎朝開国の功臣阮廌らの末裔、阮朝の祖先阮淦の再従兄弟あるいは父)が対立し軍事衝突に発展すると、陳真は鄭綏 を支援して阮弘裕を敗走させた。この時山南を守ってい
黎恭皇 りょ、ベトナム語: Lê Lự)。 錦江王黎漴(中国語版)と鄭 氏鸞(中国語版)の子で、聖宗の曾孫で、昭宗黎椅の同母弟にあたる。光紹7年(1522年)、昭宗は専権を振るう仁国公莫登庸に不満を募らせ、一部の廷臣と共に山西の明義県にある夢山に籠もると、西都城に拠る鄭綏 (中国語版)も昭宗の莫登庸討伐の命に応じた。これ
大徳 (黎榜) 大徳(だいとく)はベトナム後黎朝で昭宗に対抗する鄭綏 らに擁立された黎榜が使用した元号。1518年 - 1519年?。『欽定越史通鑑綱目』は天徳に作る。 プロジェクト 紀年法 『大越史記全書』本紀巻之15 戊寅光紹3年9月21日条 永興伯鄭綏 、文臣阮瑡与山西諸将共謀立静脩公禄之子榜為帝、改元大徳。榜乃