概要
後漢の遼東属国を前身とする。遼東属国は幽州に属し、昌黎・賓徒・徒河・夫犂・険瀆・房の6県を管轄した[1]。遼東属国は後漢末にひとたび廃止された。
244年(三国魏の正始5年)、遼東属国が復活した[2]。ほどなく遼東属国は昌黎郡と改められた。昌黎郡は幽州に属し、郡治は昌黎県に置かれた。
276年(西晋の咸寧2年)、昌黎郡は平州に転属した。西晋の昌黎郡は昌黎・賓徒の2県を管轄した[3]。
444年(北魏の太平真君5年)、昌黎郡は営州に転属した。533年(永熙2年)、南営州に転属した。北魏の昌黎郡は龍城・広興・定荒の3県を管轄した[4]。
581年(隋の開皇元年)、昌黎郡は易州に転属した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、昌黎郡は廃止されて、易州に編入された[5]。
脚注
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