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近衛 家通(旧字体:近󠄁衞 家通󠄁、このえ いえみち)は、鎌倉時代前期の公卿。関白・近衛家実の長男。官位は正二位・左大臣。
建保2年(1214年)4月9日、元服して正五位下に初叙。後鳥羽上皇より馬を賜り、昇殿・禁色を聴されると、2日後に侍従、7月に右近衛少将、次いで9月に右近衛中将、10月に従四位下、12月に正四位下に叙せられ、摂家の嫡男として急速に出世した。建保3年(1215年)正月に12歳にして従三位に叙せられ公卿に列し、美作権守を兼ねる。同年8月に権中納言に進み12月に正三位に叙せられた。
建保4年(1216年)従二位、建保5年(1217年)に正二位に叙せられる。建保6年(1218年)正月に権大納言に任じられるが、8月に母の死去により服解、10月に復任し、12月に内大臣に昇進した。建保7年(1219年)左近衛大将を兼任、3月には右大臣に任じられ、10月に左馬寮御監に補任。
承久3年(1221年)10月に承久の乱のとばちりで九条道家が失脚すると、翌閏10月10日に後任の左大臣に任じられる。貞応3年(1224年)8月6日より痢病を患い、11日に大臣在任のまま21歳で薨御[2]。最終官位は正二位左大臣兼左近衛大将だった。
閑麗な顔立ちであったが、和漢の才に頗る乏しく、不柔和で寛宥の法が無かったという[2]。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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