軍需局副長官

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軍需局副長官

軍需局副長官[1](ぐんじゅきょくふくちょうかん、: Lieutenant-General of the Ordnance)は、イギリス軍需局英語版の役職であり、軍需総監英語版の副官にあたる。1544年に設立され、1855年に廃止された。

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最後の軍需局副長官サー・ヒュー・ダルリンプル・ロス英語版ウィリアム・ソルター英語版画、1830年代。

解説

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終身任命を受けた最後の軍需局副長官ウィリアム・レッグヤコブ・ユイスマンス画。

1509年時点の軍需局英語版では軍需総監英語版の役職があったものの、軍需局副長官の役職はなかった[2]。1544年初、軍需総監サー・クリストファー・モーリス英語版が降格されて最初の軍需局副長官となり、軍需総監には代わりにトマス・シーモア(国王ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーンの弟)が就任した[3]。シーモアが軍事に無知というわけではなく、1540年代にイングランド軍を指揮したことはあったが、歴史学者クリフォード・S・L・デイヴィス(Clifford S. L. Davies)によれば、「頂点に名誉職が作られ、実際の職務が副長官に移った」形であり、モーリスの賃金も総監時代の倍にあたる日当100マークに上がった[3]。この制度変更により、それまでの海軍委員会の長官であるロード・ハイ・アドミラル英語版の地位が軍需局の長官である軍需総監の地位より高い、という状況が解消された[3]

任命は国璽が押印された特許状(letters patent)の形で行われ、任期は1670年まで終身任命(ただし、途中で解任されることもある)で、それ以降は陛下の仰せのままにとなった[4]。賃金は特許状で日当100マークと記載され[4]、1750年代のジョージ・サックヴィル卿のときには年俸1,500ポンドとされた[5]

軍需局副長官の創設時点では財務官の役職がなく、1544年から1547年まではロンドン塔管理長官が財務を担当した[2]。1547年以降は軍需局副長官と軍需局測量総監英語版が共同で担当し[2]、1670年に財務官が創設されると財務は財務官の担当となった[6]海軍財務長官と違い、軍需局に支出への最終決定権がなく、支出が監査人に否決される可能性もあったが、実務上では数年前の支出を否決することが困難であり、エリザベス1世の治世には軍需局が毎月会議を行い、必要な支出を文書にして枢密院に提出することが規定された[6]

19世紀初には陸軍将校の出世コースとされた[1]。1855年5月22日に軍需局が戦争省に統合され、軍需総監や軍需局副長官を含む軍需局の役職は廃止された[7]。最後の軍需局副長官サー・ヒュー・ダルリンプル・ロス英語版は代わりにadjutant-general of artilleryに任命された[7]

一覧

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1689年から1702年までの軍需局副長官第2代準男爵サー・ヘンリー・グッドリック英語版、1695年画。
  • 1544年 – 1544年9月3日:サー・クリストファー・モーリス英語版[3]
  • 1545年4月9日 – 1558年6月4日:サー・フランシス・フレミング英語版[4]
  • 1558年6月4日 – 1563年12月:ウィリアム・ブロムフィールド(William Bromfield[4]
  • 1563年12月6日 – 1566年11月12日:エドワード・ランドルフ英語版[4]
  • 1567年5月10日 – 1587年11月24日:ウィリアム・ペラム英語版(1579年9月14日、騎士爵に叙爵)[4]
  • 1588年6月24日 – 1591年11月:サー・ロバート・コンスタブル英語版[4]
  • 1592年1月7日 – 1608年6月27日:サー・ジョージ・カリュー英語版(1605年5月4日、カリュー男爵に叙爵)[4]
  • 1608年7月1日 – 1616年12月31日:サー・ロジャー・ダリソン英語版(1611年6月29日、準男爵に叙爵)[4]
  • 1616年12月31日 – 1625年7月:サー・リチャード・モリソン英語版[4]
    • 1616年1月1日に復帰権(reversion)が与えられ、1616年12月31日に就任した[4]
  • 1625年11月 – 1626年3月:サー・ウィリアム・ハリントン(Sir William Harington[4]
    • 1621年5月25日に復帰権が与えられ、1625年11月2日までに就任した[4]
  • 1626年3月16日 – 1627年7月13日:サー・ウィリアム・ヘイドン(Sir William Heydon[4]
  • 1627年9月13日 – 1642年6月:ジョン・ヘイドン英語版(1629年1月7日、騎士爵に叙爵)[4]
  • 1643年12月:ジョン・ピム[4]
  • 1644年3月 – 1645年6月、1647年6月 – 1648年12月:サー・ウォルター・アール英語版[4]
  • 1650年9月 – 1652年3月:トマス・ハリソン[4]
  • 1660年6月28日 – 1670年10月13日:ウィリアム・レッグ[4]
  • 1670年11月25日 – 1679年4月22日:デイヴィッド・ウォルター英語版[4]
  • 1679年4月22日 – 1682年1月28日:ジョージ・レッグ英語版[4]
    • 1672年12月7日に復帰権が与えられ、1679年4月22日に就任した[4]
  • 1682年1月28日 – 1687年8月1日:サー・クリストファー・マスグレイヴ英語版[4]
  • 1687年8月1日 – 1689年4月:第3代準男爵サー・ヘンリー・ティッチボーン英語版[4]
  • 1689年4月16日 – 1702年6月29日:第2代準男爵サー・ヘンリー・グッドリック英語版[4]
  • 1702年6月29日 – 1705年5月2日:ジョン・グランヴィル閣下英語版(1703年3月13日、グランヴィル男爵に叙爵)[4]
  • 1705年5月2日 – 1712年6月21日:トマス・アール英語版[4]
  • 1712年6月21日 – 1714年9月29日:ジョン・ヒル英語版[4]
  • 1714年9月29日 – 1718年3月20日:トマス・アール英語版[4]
  • 1718年3月20日 – 1718年3月28日:トマス・ミクルスウェイト英語版[4]
  • 1719年4月22日 – 1741年12月25日:チャールズ・ウィルズ英語版(1725年6月17日、騎士爵に叙爵)[4]
  • 1742年7月2日 – 1748年3月14日:ジョージ・ウェイド[4]
  • 1748年3月26日 – 1757年12月22日:サー・ジョン・リゴニア英語版[4]
  • 1757年12月22日 – 1759年10月11日:ジョージ・サックヴィル卿[4]
  • 1759年10月11日 – 1763年5月12日:グランビー侯爵ジョン・マナーズ英語版[4]
  • 1763年5月12日 – 1767年8月7日:ジョージ・タウンゼンド(1764年3月12日より第4代タウンゼンド子爵[4]
  • 1767年8月7日 – 1772年11月4日:ヘンリー・シーモア・コンウェイ閣下[4]
  • 1772年11月4日 – 1782年5月6日:サー・ジェフリー・アマースト(1776年5月20日、アマースト男爵に叙爵)[4]
  • 1782年5月6日 – 1804年11月22日:ウィリアム・ハウ閣下(1799年8月5日より第5代ハウ子爵[4]
  • 1804年11月22日 – 1814年1月11日:サー・トマス・トリッグ英語版[4]
  • 1814年3月9日 – 1822年9月9日:初代準男爵サー・ヒルドブランド・オークス英語版[4]
  • 1823年2月18日 – 1824年3月22日:初代ベレスフォード子爵ウィリアム・ベレスフォード英語版[4]
  • 1824年3月22日 – 1825年4月30日:サー・ジョージ・マレー英語版[4]
  • 1825年4月30日 – 1829年7月8日:サー・ウィリアム・ヘンリー・クリントン英語版[4]
  • 1829年7月8日 – 1830年:エドワード・サマセット卿英語版[4]
  • 1831年 – 1854年:空位[4]
  • 1854年5月6日 – 1855年5月22日:サー・ヒュー・ダルリンプル・ロス英語版[4]

出典

参考文献

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