呂震、皇太子朱高熾が監国すると、呂震の婿にあたる主事の張鶴に朝参儀礼での失敗があったが、太子は呂震のために張鶴を赦した。永楽帝はこれを聞いて怒り、呂震と蹇義を錦衣衛の獄に下した。永楽21年(1423年)3月、呂震は釈放され、礼部尚書に復職した。永楽22年(1424年)7月、永楽帝が死去すると、遺詔により
明朝の官職宗復設。永樂二十二年八月,復置三公、三少。宣徳三年,敕太師、英國公張輔,少師、吏部尚書蹇義,少傅、兵部尚書、華蓋殿大學士楊士奇,少保兼太子少傅、戸部尚書夏原吉,各輟所領,侍左右,咨訪政事。公孤之官,幾於專授。逮義、原吉卒,士奇還領閣務。自此以後,公、孤但虚銜,為勳戚文武大臣加官、贈官。而文臣無生加
郭璡なった。10月、詹事府少詹事を兼ね、璡と名を改めた。 宣徳元年(1426年)、郭璡は豊城侯李賢や郭敦らとともに食糧輸送を監督した。宣徳帝は吏部尚書の蹇義が老齢であることから、郭璡と交代させようとした。楊士奇が反対したため、ひとたび断念された。宣徳4年(1429年)4月、郭璡は吏部尚書に進んだ。郭璡は
明史列伝第三十五 - 解縉・黄淮・胡広・金幼孜・胡儼 列伝第三十六 - 楊士奇・楊栄(曾孫旦)・楊溥(馬愉) 列伝第三十七 - 蹇義・夏原吉(兪士吉・李文郁・鄒師顔) 列伝第三十八 - 郁新・趙羾・金忠・李慶・師逵・古朴(向宝)・陳寿(馬京・許思温)・劉季篪・劉辰・楊砥・虞謙(呂升・仰瞻・厳本)・湯宗
黄淮楽6年(1408年)、胡広・金幼孜・楊栄・楊士奇とともに皇太孫朱瞻基の輔導の任にあてられた。永楽7年(1409年)、永楽帝が北巡に出立すると、黄淮は蹇義・金忠・楊士奇とともに皇太子の監国を補佐した。永楽11年(1413年)、永楽帝が再び北巡すると、黄淮は北京の留守をつとめた。永楽12年(1414年)