赤斤蒙古衛(せっきんもうこえい)は、河西回廊に明朝が設置した羈縻衛所の一つで、現在の中華人民共和国甘粛省・青海省・新疆ウイグル自治区の境界線上に位置していた。
タルニ(塔力尼)の治世
永楽2年(1404年)、北元の丞相クチュの息子のタルニ(塔力尼)は500人余りの部下を率いて哈剌禿の地より明朝に来帰し、これを受けて永楽帝は赤斤蒙古千戸所を設置し、タルニをその千戸長とした[1]。永楽8年(1410年)には「赤斤蒙古千戸所」を昇格させて「赤斤蒙古衛」とし、同時に千戸長のタルニを指揮僉事に、百戸長らを千戸長に昇格させた上で漢人風の姓名を賜った[2]。永楽9年(1411年)には赤斤蒙古衛指揮タルニは沙州衛指揮コンジライ(困即来)とともに明朝に朝貢している[3]。
永楽10年(1412年)、明朝に叛したラオディカン(老的罕)が赤斤蒙古衛に逃れ、衛指揮のタルニがこれを匿うという事件が起こった[4]。これを受けて永楽帝は豊城侯李彬に赤斤蒙古衛を討伐するよう命じたが、李彬・楊栄らは「今は冬の季節で兵を動かすには適さず、また罪を犯した者は数名であるのに軍を動かせば無辜の者にも害が及ぶでしょう」と上奏し、性急に軍を動かすことに反対した。そこで永楽帝は改めて赤斤蒙古衛指揮のタルニに使者を派遣し、ラオディカンを引き渡せば厚く報償を与えるが、これを拒否するならば軍を派遣するであろうと通達した[5]。永楽11年(1413年)、永楽帝の通達を聞いたタルニは匿っていたラオディカンを捕らえ、北京まで送らせた[6]。この功績によってタルニは指揮僉事から指揮同知に、千戸長は正千戸にそれぞれ昇格となり、併せて下賜品が贈られた[7]。
スナンシュジャ(且旺失加)の治世
宣徳元年(1426年)、赤斤蒙古衛では代替わりしてスナンシュジャ(且旺失加)が使者を派遣して朝貢し[8]、これを受けて宣徳帝はスナンシュジャを都指揮同知に、指揮同知苟古者を都指揮僉事とした[9]。宣徳2年(1427年)には赤斤蒙古衛千戸のサイフッディーン(賽夫丁)が朝貢に訪れ[10]、また宣徳3年(1428年)にはティムール朝・モグーリスタン・ハン国に派遣された明朝の使者を支援した功績によって沙州衛・赤斤蒙古衛は下賜を受けた[11]。宣徳5年(1430年)にはメクリン部の長のモンケ・ブカ、沙州衛のコンジライ(困即来)とともに赤斤蒙古衛は明朝に朝貢し[12]、明朝より下賜を受けた[13]。
宣徳7年(1432年)には再びティムール朝に派遣された明朝の使者を護送し[14]、またこの頃赤斤蒙古衛では代替わりして指揮僉事の子のトクト(脱脱)やイルベイ(亦魯伯)が父の後を継いだ[15][16]。同年秋には粛州より派遣された明朝の官軍が偵察中に殺されるという事件が起き、粛州都督の王貴は赤斤蒙古衛の仕業ではないかと疑い、これを罰するよう朝廷に報告すると同時に、私的に交易を行う赤斤蒙古人を取り締まるよう上奏した[17][18]。この後、赤斤蒙古衛より明朝に来帰する者が相継ぎ[19]、彼等の報告によって王貴こそが不正を行っていたことが明らかになり王貴は捕らえられた[20]。
正統元年(1436年)に入り、赤斤蒙古衛都指揮スナンシュジャの要請によってその部下の倉児吉や省吉らの官位が昇格された[21]。同年には赤斤蒙古衛千戸の把都麻が賊の首長になるという事件が起き[22]、明朝に来帰する者が相継いだが[23][24]、赤斤蒙古衛都指揮同知スナンシュジャはトゴン・テムル、モンケ・ブカら討伐の功績によって都指揮使に昇格となっている[25]。
- 赤斤蒙古衛指揮同知タルニ(塔力尼)
- スナンシュジャ(速南失加/且旺失加=安思謙)
『明太宗実録』永楽二年十月辛未「故韃靼丞相若木子塔力尼等、率所部男婦五百餘人自哈剌禿之地来帰、詔設粛州赤斤蒙古千戸所、以塔力尼為千戸、賜誥印・襲衣・綵幣。赤斤甘粛隣境也」
『明太宗実録』永楽八年八月壬戌「…陞赤斤蒙古千戸所為粛州赤斤蒙古衛、指揮使司千戸塔力尼為指揮僉事、百戸薛失加・速南失加・乃馬歹皆陞副千戸、賜速南失加姓名為安思謙、乃馬歹為王存礼、皆賜綵幣及衣服。嘉其不従哈剌馬牙等叛、且獲賊有功也。時沙州舎人把不台・赤斤舎人把児単等三十九人亦預効労、賜綵幣・絹布」
『明太宗実録』永楽九年五月甲戌「沙州衛都指揮困即来・赤斤蒙古衛指揮塔力尼等遣使貢馬、賜鈔幣、有差」
『明太宗実録』永楽十年十一月壬午朔「甘粛総兵官駙馬都尉西寧侯宋琥言、比叛寇老的罕等走依赤斤蒙古衛指揮塔力尼、亟遣人索之、塔力尼匿不発。此賊兇悖、不除将為辺患。上命右春坊右庶子兼翰林院侍講楊栄、往陝西同豊城侯李彬詣甘粛経略之」
『明太宗実録』永楽十年十二月戊寅「勅甘粛総兵官豊城侯李彬、止兵勿進。先是以西寧侯宋琥言、赤斤蒙古衛指揮塔力尼匿叛寇老的罕等。命翰林侍講楊栄、詣甘粛与彬商略発兵伐塔力尼。彬謂、叛寇固当誅戮、但軍行道路険悪、難於餽運。栄亦謂、隆冬非用兵之時、且有罪不過数人、官軍所至不免濫及無辜。彬猶豫栄請、自帰奏之既至見、上具言所以未可進兵之故遂勅止彬勿進。又遣人齎勅諭塔力尼曰、爾等帰順朝廷以来、絶無瑕釁。今乃容納叛賊老的罕等甚非計也蓋朕待此賊素厚竟負恩而叛負恩之人何可与居爾勿貪末利自貽伊戚譬如人身本無疾病乃灼艾加鍼以成瘡瘢爾宜審之如。能擒老的罕等送来、当行賞賚。不然、発兵討叛、非赤斤之利」
『明太宗実録』永楽十一年五月己丑「赤斤蒙古衛指揮塔力尼等遣頭目鎖南吉剌等、送擒獲叛虜老的罕等至京師、賜鎖南吉等鈔幣、有差」
『明太宗実録』永楽十一年五月壬辰「命千戸丁全齎勅陞赤斤蒙古衛指揮僉事塔力尼為指揮同知、賞綵幣六・表裏・織金・紵絲衣一。襲副千戸薛失加為正千戸、綵幣四・表裏・紵絲衣一襲。餘陞百戸所鎮撫賜賚有差。嘉其擒叛虜老的罕等之功也」
『明宣宗実録』宣徳元年十二月戊子「赤斤蒙古等衛指揮使且旺失加等遣千戸鎖合者等、来朝貢馬」『明宣宗実録』宣徳二年正月庚戌「…赤斤蒙古等衛指揮使且旺失加所遣千戸鎖合者等、鈔・綵幣・表裏、有差。仍賜鎖合者等七人冠帯、賜且旺失加綵幣十二・表裏。其指揮千戸等賜有差」
『明宣宗実録』宣徳二年二月丙戌「陞赤斤蒙古衛指揮使且旺失加為都指揮同知、仍掌本衛事指揮同知苟古者為都指揮僉事」
『明宣宗実録』宣徳二年十一月乙未「赤斤蒙古衛千戸賽夫丁来朝、奏願居京、自効。賜金織・襲衣・綵幣・鈔布、仍命有司給房屋器皿等物、如例」
『明宣宗実録』宣徳三年正月癸巳「遣内官李信・林春・李貴・郭泰等、齎勅及金織・文綺・表裏往亦力把里・別失把里亦昔闊哈烈・馬綽児八剌黒城・把答失罕・撒馬児罕・賽藍城・掃郎城・達失干城・失剌思亦思弗罕及坤城等処、賜其王及頭目。蓋嘉其遣使朝貢也。以信等道過沙州・赤斤蒙古二衛、併賜掌衛事都指揮僉事困即来・指揮薛迭古等金織文綺綵幣、有差」
『明宣宗実録』宣徳五年十月乙未「瓦剌等処頭目猛哥不花等遣使臣卜顔帖木児、沙州・赤斤蒙古二衛都督困即来等遣舎人阿魯火者等、来朝貢駝馬」
『明宣宗実録』宣徳五年十一月丁未「賜瓦剌等処使臣卜顔帖木児、沙州・赤斤蒙古等衛舎人阿魯火者、屯河衛指揮同知土罕、忽魯愛衛指揮斡黒等、鈔・綵幣・表裏、有差」『明宣宗実録』宣徳五年十二月丁亥「赤斤蒙古衛正千戸朶児只遜等遣舎人把都麻等、貢駝馬…」
『明宣宗実録』宣徳七年正月丁卯「遣中官李貴等使西域哈烈等国……並勅哈密忠順王卜答失里・忠義王脱歓帖木児、沙州・赤斤蒙古二衛都督困即来・都指揮察罕不花等以兵護送」『明宣宗実録』宣徳七年八月壬子「遣羽林前衛都指揮僉事昌英往哈密、賜忠義王脱歓帖木児等・粛州衛指揮同知韋文等、往赤斤蒙古・曲先・罕東等衛、賜指揮僉事倉児吉等綵幣・表裏」
『明宣宗実録』宣徳七年八月壬辰「以赤斤蒙古衛故指揮僉事子脱脱等三人襲職」
『明宣宗実録』宣徳七年八月庚戌「命赤斤蒙古衛故指揮僉事朶児只失加之子亦魯伯・沙州衛故指揮僉事兀魯思子忽禿不花・故指揮僉事鎖南子曲列該・曲先衛故都指揮同知散即思之子都立等、倶襲職、各賜勅勉之」
『明宣宗実録』宣徳七年九月己未「鎮守粛州都督王貴奏、粛州西北極辺昨遣人往各処戒飭。官軍守備惟一人還哨探至寒水石口、見同差之人、皆被殺。疑赤斤蒙古衛都指揮且旺失加部属所為。此皆提督守備指揮許昺不厳警邏所致、請治其罪。仍遣人往且旺失加所根究以戒後来。上曰、殺人当問罪、但疑似之間不可不審。令与劉広王安詳議、而行許昺失機就治其罪」
『明宣宗実録』宣徳八年六月丙戌「鎮守陝西行都司都督僉事王貴奏……及出境私通赤斤蒙古衛韃官鎖可者違禁買駝馬中塩等事請治之。上命行在都察院遣廉正御史馳駅往鞫之」
『明宣宗実録』宣徳八年十二月丙辰「赤斤蒙古衛宗思答児等八人来帰献駝馬、奏願居甘州自効、従之、命宗思答児為百戸餘倶為所鎮撫、賜冠帯・紵絲・襲衣、仍命陝西行都司於甘州左衛給俸」
『明宣宗実録』宣徳九年三月丁酉「宥鎮守粛州都督僉事王貴罪。先是、赤斤蒙古衛部属屡有来帰者、貴私有其駞馬人口、悉不以聞事覚。始以半首官又擅縦沙州衛人入関市易有発其事者。上命総兵官都督僉事劉広執貴、従人鞫之。広奏、事皆実請治貴罪、上命姑宥之」
『明英宗実録』正統元年二月辛酉「陞赤斤蒙古衛指揮僉事倉児吉為指揮同知……蒙古衛舎人省吉為百戸、従都指揮且旺失加等奏請也」
『明英宗実録』正統元年六月庚戌「勅甘粛左副総兵左都督任礼等曰、得奏赤斤蒙古衛千戸把都麻首達賊状。已令都督趙安等、領兵隄備計画有方具見、卿等勤労、但賊多譎詐、把都麻言恐未実。朕度之…」
『明英宗実録』正統元年九月辛酉「赤斤蒙古衛百戸哈剌苦竹所鎮撫陝西丁・迤北韃靼鎖南伯等来帰、奏願居京自効。陞哈剌若竹為副千戸、陝西丁為百戸、鎖南伯等為所鎮撫、賜冠帯」
『明英宗実録』正統元年十月辛未「孛的答里麻・達子只児哈・帖児等三人、赤斤蒙古衛百戸把禿所鎮撫丁原等八人来帰、倶授以職、賜衣服・銀鈔等物、安挿居住」
『明英宗実録』正統元年九月壬戌「陞赤斤蒙古衛都指揮同知且旺失加為都指揮使、都指揮僉事苦出帖木児為都指揮同知、指揮等官可児即等五十一人陞官、有差。時且旺失加遣使来言、与韃靼脱歓帖木児・猛哥卜花戦、勝有功、故有是命」
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年