豊原区 (台中市)
今は台中市の市轄区、元は台中県政府の駐在所 ウィキペディアから
豊原区(フォンユエン/ほうげん/とよはら-く)は、台中市の市轄区。台中市政府陽明大楼の所在地でもある。

歴史
豊原の旧名は「葫蘆墩」(ころとん)であり、その地名の由来は史料によれば、清代初の康熙年間、草木が繁茂する荒野を先住民が「松柏の林」という意味で「泰耶爾墩」と称し、「葫蘆墩」は「泰耶爾墩」の音訳であると言われている。また別説では「墩腳」と下南,坑有の3地区に小丘があり、形状が葫蘆に似ていた事から命名されたという説もある。1684年、台湾に1府3県が設置された際、豊原は諸羅県に帰属することとなった。
1733年、張達京と岸裡社平埔族土官潘墩仔が清朝のこの地の開墾許可を獲得し、福建漳州、泉州よりの入植を推進し、この地に集落を形成するに至った。1886年になると葫蘆墩に撿衙門が設置され、豊原地区に初めて官が設置された。続いて東上堡保甲局(聯保局)も葫蘆墩街に移され、それまで地区の中心であった岸裡大社に替わって中心地となるに至った。その後巡府劉銘伝が台湾を訪問した際に、豊原の土地が肥沃であり、物産が豊富であることから「富春郷」と命名され、また水質が良好な上、美人が多いことから「小蘇州」とも称された。
豊原の開発は岸裡社を起点に行われた。当初は原住民である平埔族「拍宰海」(PAZEH或いはPAZZEHE)族群の拠点であり、域内に葫蘆墩(FULUTON)、崎仔脚(岐仔下とも)、烏牛欄(AURAN)、翁仔(BARLAEON)、樸仔籬(POALY或いはABOUAN POALY)などの小社が形成され、麻薯屯を中心として「岸裡社」(RAHO DO PURU)に帰属していた。
日本による統治が始まると台中県が設置され、現在の豊原、潭子、大雅、神岡、社口を範囲とする「豊原郡」が設置され、「豊原」の地名が誕生した。また、「葫蘆墩駅」が設置されるなど、豊原は台湾中部の交通の要衝としての地位を占めるようになったばかりか、1912年、台湾製麻株式会社が設立され南嵩里及び田心里一帯にタバコと黄麻が栽培されたり、1915年からは八仙山林場で材木の伐採が開始されると、豊原は木材の集積地であるばかりか重要な加工拠点となり、工業面でも大いに発展を見ることとなり、現在の経済構造の基礎を築いた。
1920年に「コロトン米を以て知らるゝ米產地なるを以て、其吉祥に因んで[2]」内地風の豊原(とよはら)と改称され現在の名称が誕生した。 1935年4月21日に発生した新竹・台中地震では、建物のほとんどが倒壊し多くの死者を出している[3]。
台湾の中華民国への編入後の1950年10月21日、台中県が設置されて豊原は県政府所在地として発展し、1976年に県轄市に昇格した。2010年12月25日の台中県市合併、直轄市昇格に伴い豊原区と改称されて現在に至る。
経済
豊原区で過去に主要産業とされていた稲作、木材、木材加工、漆工芸品、製麻紡織、タバコ、製鞋などは経済構造の変化により衰退し、現在では主に機械産業と果物栽培が中心となっている。
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