司諫院司諫院(サガンウォン)は、李氏朝鮮における官府。朝鮮王に諫言し、政治の非を論駁する職務を管轄する。 太宗治世中に戸曹からの建議を受けての朝鮮通宝の鋳造事業着手に対し、司諫府が楮貨の流通を阻害するとの意見を出し、太宗治世中での朝鮮通宝鋳造が見送られるということがあった。
司憲府1392年(太祖元年)、中枢院の南に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革によって、司諫院とともに、議政府所属の都察院に改編された。 まず時政においては、弘文館、司諫院とともに議論し、これらの官衙を、台諫や三司と呼んだ。また政治活動は、大司憲(テサホン)、執義、掌令、持平が行
議政府この機関が創設されたのは、1400年(定宗2年)に都評議使司、門下府を統合して創設される。翌1401年(太宗元年)門下府の機能を独立させ、司諫院とした。 議政府は『経国大典』で「総百官平庶政理陰陽経邦国(すべての官吏を総帥し、諸政を公平にし、陰陽を明確にし、国家を運営する)」と定義されている
尹元衡5年)に乙巳士禍を起こして尹任を処刑に追い込み専権を振るった。嘉靖44年(1565年)に文定王后が65歳(数え年)で崩御すると即時失脚し、司憲府・司諫院・弘文館の弾劾を受けて隠居地で自殺した。 テレビドラマ 『女人天下』(2001年 - 2002年 SBS、演:イ・ドックァ) - ただし、作中では文定王后の2番目の兄として設定
成均館桂により開京(開城)から漢陽へと遷都されると、同じく開城から京城府へ移されて、国内の儒教最高教育機関となった。燕山君(1494‐1506年)時には司諫院、経筵が廃されたと共に成均館も遊戯場にされた。廃位後に戻された。 高麗時代には首都開城に「成均館」があったが、李氏朝鮮時代に漢陽(ソウル)へ遷都され