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諫早 茂喬(いさはや しげたか)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)13代当主。
諫早家は龍造寺隆信の又従兄弟家晴の子孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。藩内の家格は親類同格。龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。
文政6年(1823年)4月1日、諫早邑主12代・諫早茂洪の子として誕生。幼名は益千代。正室は鍋島斉直娘・於民。
弘化2年(1845年)9月29日家督相続。10月に通称を石見と改める。12月に藩主・鍋島斉正の妹於民と結婚。
弘化3年(1846年)6月7日、フランスのセシル提督率いる軍艦3隻(クレオパトル、サビヌ、ヴィクトリューズ)が長崎に来航して交易を求めた際に、兵を率いて長崎に急行して港の警備に当たった。弘化4年(1847年)11月、佐賀諫早家屋敷で病に伏せる茂喬を診察するため、藩医伊東玄朴が使わされた。
嘉永元年(1848年)2月25日死去。享年26。菩提寺の天祐寺に葬られた。家督は嫡子益千代(武春)が幼いため、弟孫九郎(茂孫)が相続した。
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