袁州
ウィキペディアから
隋代
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、宜陽県に袁州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、袁州は宜春郡と改称され、下部に3県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
621年(武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、宜春郡は袁州と改められた。742年(天宝元年)、袁州は宜春郡と改称された。758年(乾元元年)、宜春郡は袁州の称にもどされた。袁州は江南西道に属し、宜春・萍郷・新渝の3県を管轄した[2]。
宋代
元代
1276年(至元13年)、元により袁州に総管府が置かれた。1282年(至元19年)、袁州総管府は袁州路と改められた。袁州路は江西等処行中書省に属し、録事司と宜春・分宜・万載の3県と萍郷州を管轄した[4]。1360年、朱元璋により袁州路は袁州府と改められた。
明代以降
明のとき、袁州府は江西省に属し、宜春・分宜・萍郷・万載の4県を管轄した[5]。
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.