藤堂良政
安土桃山時代の武将。従五位下、玄蕃頭。藤堂玄蕃家初代。子に藤堂良重(3代)-重経-良勝(5代)、藤堂良次 ウィキペディアから
藤堂 良政(とうどう よしまさ)は、安土桃山時代の武将。若江八人衆の一人。藤堂高虎の従兄弟にあたる。別名は嘉清(よしきよ)[1]。
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略歴
初め織田信長や羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、天正18年(1590年)から秀吉の甥・秀次に仕え三河国西部に2300石の知行を与えられた[1]。文禄3年(1594年)には伏見城の石垣普請で功績を挙げた[1]。
文禄4年(1595年)に秀次事件で秀次が切腹すると、秀吉の命令で従兄弟の藤堂高虎の許に身柄を預けられ、そのまま罪を許されて高虎の家臣となった[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは藤堂隊に従って本戦では石田三成と戦ったが、島清興の長男・信勝(あるいは四男・清正)に討ち取られた[2]。享年42。遺体は関ヶ原に埋葬され、後に伊賀国上野の大善寺[注 1]に墓標が建てられた。法名は「善樹院殿淨法見徹居士」(『藤堂姓諸家等家譜集』)[3]。
脚注
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