藤原高実
鎌倉時代前期の公卿。正二位権大納言、民部卿。藤原北家摂関家相続流九条家。 ウィキペディアから
藤原 高実(ふじわら の たかざね)は、鎌倉時代前期の公卿。正二位権大納言、民部卿。父は太政大臣九条良平、母は藤原範光女。外山大納言入道と号す。
二位中将から権中納言に直任
経歴
以下、『公卿補任』及び『尊卑文脈』の内容に従って記述する。
- 建保7年(1219年)1月8日、従五位上に叙される。同月22日、侍従に任ぜられる。同年4月8日、右少将に任ぜられる。
- 承久元年(1219年)11月13日、正五位下に昇叙[1]。同日、春宮権亮を兼ねる。
- 承久2年(1220年)1月22日、右中将に転任し下野介を兼ねる。
- 承久3年(1221年)1月5日、従四位下に昇叙。同年閏4月16日、従四位上に昇叙。同年11月29日、正四位下に昇叙[2]。
- 承久4年(1222年)1月20日、従三位に叙される[3]。同月24日、右中将は元の如し。
- 元仁元年(1224年)1月27日、但馬権守を兼ねる。同年4月10日、正三位に昇叙[4]。
- 嘉禄元年(1225年)12月22日、従二位に昇叙。
- 安貞元年(1227年)4月9日、権中納言に任ぜられる[5]。
- 安貞2年(1228年)2月1日、正二位に昇叙。同年7月5日、母の喪に服し10月12日に復任。
- 寛喜3年(1231年)4月26日、権大納言に転任[6]。
- 嘉禎4年(1238年)1月7日、仗座において気絶し、蘇生の後に退出。同年2月23日、権大納言を辞し民部卿に任ぜられる。
- 仁治元年(1240)1月22日、民部卿を辞す。同年3月27日、父良平の喪に服す。
- 仁治3年(1242年)3月17日、出家[7]。
- 宝治2年(1248年)8月1日、薨去。享年39。
系譜
脚注
参考文献
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