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平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。藤原光隆の長男。正三位非参議。出家。子に藤原為信(丹波守、丹後守)、藤原長隆(或光隆男、侍従)、藤原仲隆-審隆(延暦寺、律師)、藤原有 ウィキペディアから
藤原 雅隆(ふじわら の まさたか、旧字体:藤󠄁原 雅󠄂隆󠄁)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家良門流、権中納言・藤原光隆の長男。官位は正三位・非参議。
久寿2年(1155年)藤原得子(美福門院)判代官、蔵人に補され、従五位下に叙爵。保元2年(1157年)従五位上に進み、永暦元年(1160年)備後守に任官。応保元年(1161年)左衛門佐を兼ね、長寛2年(1164年)備後守を重任する。
永万2年(1166年)正五位下、続いて従四位下、仁安3年(1168年)従四位上に叙される。嘉応2年(1170年)美作守に遷任し、嘉応3年(1171年)正四位下に昇叙。安元2年(1176年)後白河法皇の五十賀にて、千手観音堂を寄進している。安元3年(1177年)越後守を務め、治承3年(1179年)大蔵卿に任ぜられた。寿永2年(1183年)内蔵頭・平信基が平家の一門都落ちに従い、解官されたため雅隆は後任として内蔵頭に任ぜられた。
元暦2年(1185年)従三位に叙され公卿に列す。建久9年(1198年)には正三位に進み、正治3年(1201年)皇后宮権大夫に任ぜられる。元久3年(1206年)大夫を辞した。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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