藤原家長
平安時代後期の公家 ウィキペディアから
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藤原 家長(ふじわら の いえなが)は、平安時代後期の公家。藤原北家末茂流、参議・藤原家保の子[1]。官位は正四位下・刑部卿。
元永元年(1118年)白河院判官代と鳥羽天皇の蔵人に任ぜられる[2]。美濃国・土佐国・備中国などの国司を歴任後、久寿3年(1156年)能登守に任ぜられる[3]。
また、藤原忠実・頼長父子に近侍し、その外出の際にはしばしば前駆を務めている[4]。その関係からか保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に参じたとされ、『保元物語』においては乱の後に出家・降伏した公家の中にその名が見える。ただし、その際の処罰を含め、その後の具体的な動静については不明であるが、乱を通じて能登守の官職を解任されたらしく、乱後の9月の除目では藤原基家が能登守に任ぜられている[5]。
実家の善勝寺流(六条家流)は庖丁道を伝える家柄であり、家長も鳥羽院の御前の酒宴において包丁人を務め、魚を捌いた際の逸話が『古事談』に見える[6]。
『尊卑分脈』による。
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