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平安時代末期から鎌倉時代初期のの貴族。藤原式家。文章博士。子に藤原長衡(長男) ウィキペディアから
藤原 光輔(ふじわら の みつすけ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期のかけての貴族。初名は光能。藤原式家、内蔵権頭・藤原長光の子。
大内記・式部少輔・文章博士など文人官僚を歴任する一方[1]、治承3年(1179年)正五位下に叙せられ[2]、位階は従四位上に至った。
九条家の家司を務め、寿永2年(1183年)関白・近衛基通の上表文を作成した[3]。また、文治元年(1185年)自邸に群盗が乱入する事件が起こり、右大臣・九条兼実から見舞いとして綿衣・小袖を与えられている[4]。
文人としては、文章博士在任中の文治2年(1186年)後鳥羽天皇の御書始に際して尚復を務め[5]、文治6年(1190年)改元にあたって建久の元号を勘申し、採用されている。
『尊卑分脈』による。
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