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蒲 殿俊(ほ でんしゅん、1875年 - 1935年)は、清末民初の政治家。立憲派として活動した。字は伯英。四川省広安出身[1]。
青年期に広安で紫金精舎を設立、学問を重ねた。当地の保守勢力により康有為の郎党と目された。1904年(光緒30年)、甲辰科進士となり、法部主事の位を授かった。その後日本に留学している[1]。帰国して1909年(宣統元年)、四川省咨議局議長に選出された。翌年、『蜀報』を創設して立憲を宣伝し、また北京に請願に赴いている。
1911年(宣統3年)、鉄道保護運動(保路運動)が勃発すると、四川保路同志会会長に選出された。同年11月27日、辛亥革命に呼応して成都に大漢四川軍政府が成立すると、蒲殿俊が都督、朱慶瀾が副都督として選出された。しかし12月8日、給料遅配に不満を抱いた四川軍兵士が暴動を起こし、蒲と朱はこれを鎮圧できず逃亡した[2]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)8月、民主党に加入する。翌年、衆議院議員に当選する。同年5月、民主党が共和党、統一党とともに進歩党を結成すると、蒲殿俊はその理事に選ばれた。
1913年より袁世凱の帝政と張勲の王朝復古に異を唱えた。段祺瑞政権の内務部部長となって議員を買収、曹錕を大統領とした[1]。
1916年(民国5年)、国会の復活とともに衆議院議員に復帰する。翌年7月、北京政府内務部次長兼北京市政督弁に任命された(内務部次長については、同年12月に辞任している)。翌年、北京『晨報』社社長に就く。1921年(民国10年)4月、上海で民衆戯劇社を創設し、月刊『戯劇』を刊行した。翌年、再び国会議員に戻っている。晩年は郷里に帰り、政治には関与しなかった。
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