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蒙毅
中国の秦の臣 ウィキペディアから
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生涯
要約
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蒙氏は、蒙驁の代に斉より秦へ移り住んだ。蒙恬が始皇帝に信任されると、蒙毅も親近され、官位は上卿に至り、始皇帝の外出には常に車に陪乗し、宮中でも常に御前に侍った。監察や献策に尽力し、蒙恬と共に始皇帝の寵遇を受けて「忠信」と称された。
ある時、中車府令(皇帝の車馬を管理する官職)の趙高が大罪を犯し、蒙毅は法に基づいて死罪としたが、始皇帝は趙高が非常に勤勉であるということを考慮し、恩赦して復職させた。この事で蒙毅は趙高に恨まれることになった。
始皇37年(紀元前210年)の冬、始皇帝は会稽山へ巡幸し、海路を経て琅邪へ向かう途中、突然の病に倒れた。蒙毅は山川の神に快復を祈願するために引き返したが、蒙毅が戻らないうちに始皇帝は沙丘で崩御した。始皇帝はいよいよ死が差し迫った時に、長子の扶蘇に宛てて「咸陽で葬儀を執り行え」とする璽書を遺し、趙高に管理させていた。これは始皇帝が扶蘇を後継に指名したと捉えられるものであり、趙高の言によると蒙恬もまた最高位の官である丞相に任命されると目されていた。
当時、丞相の李斯、公子の胡亥、趙高が巡幸に随行しており、彼らによって始皇帝の死は伏せられた。趙高は以前から胡亥の寵愛を受けていたため、李斯と共謀して胡亥を皇帝の後継にしようと陰謀を巡らせた。趙高らは始皇帝の遺詔を偽造し、扶蘇と蒙恬に自殺するよう命じた(賜死)。扶蘇はすぐに自害したが、蒙恬は再度審問を要求したため、陽周の監獄に繋がれた。
胡亥は扶蘇の自害を聞くと蒙恬は釈放しようと考えたが、趙高は蒙氏一族が再び権勢を握ることを恐れ、蒙毅が祈願を終えて戻ってくると、趙高はこの機に乗じて蒙氏一族を滅ぼそうと画策した。趙高は胡亥に、「先帝(始皇帝)は賢才(胡亥)を太子に立てることをずっとお考えになっておりましたが、蒙毅が妨げたと聞いております。もし蒙毅が殿下の賢明さを認めながら、長く太子に立てようとしなかったなら、それは殿下への不忠であり、先帝を惑わせていたことに他なりません。私の愚かな意見では、蒙毅は誅殺されるのがよろしいかと存じます」と讒言した。これを胡亥は信じ込み、蒙毅は代の監獄に囚われた。胡亥が二世皇帝として即位すると、趙高によって蒙氏一族は誹謗され、罪状を見つけては弾劾された。
胡亥は曲宮という御史を蒙毅のもとに遣わし、「丞相(李斯)は卿(蒙毅)が不忠であるとして、その罪は一族に及ぶとしている。朕はそれに忍びず、卿に自害を命じるだけで済ませる。これは卿にとって幸いなことではないか。よく考えよ」と賜死を宣告した。
これに対し蒙毅は、「若くして仕官して以来、先帝のご意向に沿い、崩御されるまで仕えてきたことは、先帝の御心を理解していた証と申せましょう。先帝が太子を挙用なさったのは、長年にわたるご考慮の結果です。私がどうして敢えて言葉を差し挟んだり、謀り事を企てたりできましょうか。私は言葉を飾ってまで生き永らえようとは考えておりません。ただ、先帝の名誉を汚すことを恐れているのです。私を真実の罪状によって死なせてください。秦の穆公・昭襄王・楚の平王・呉の夫差、この四君はいずれも大きな過ちを犯し、天下の人々から非難され、その悪名は史書に記録されております。正道をもって国を治める者は無実の者を殺さず、罪なき者に刑罰を加えないのです。どうかよくお考えいただきたい」と述べて自害を拒み、曲宮に上書してくれるよう頼んだ。
しかし、曲宮は胡亥の真意(蒙毅を必ず殺せという意)を承知しており、蒙毅は殺害された。同年、蒙恬も自害に追い込まれ、蒙氏一族は滅ぼされたという。
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参考文献
関連項目
- THE MYTH/神話 - 蒙毅を主人公とした、タイムスリップと輪廻転生がテーマの2005年の香港・中国合作映画、および2009年の中国のテレビドラマ作品。
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