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中華民国の政治家 ウィキペディアから
1900年(光緒26年)とその翌年に、庚子辛丑併科挙人となる。学部候補主事となった後、日本に留学する。1904年(光緒30年・明治37年)に早稲田大学邦語政治科を卒業した[1]。その直後に蔡元培と知り合い、中国同盟会に加入している。
中華民国成立後、北京政府教育総長となった蔡元培の下で、董鴻禕は教育部秘書長に就任する。1912年(民国元年)7月、教育部次長に昇進した。翌年5月、趙秉鈞内閣で教育総長代理となる。段祺瑞臨時内閣を経て、熊希齢内閣の9月まで、その地位にあった。1914年(民国3年)5月には、平政院庭長に就任している。
1916年(民国5年)3月、病没。享年39。
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