新五代史雑伝第三十七 - 翟光鄴・馮暉・皇甫暉・唐景思・王進・常思・孫方諫 雑伝第三十八 - 王峻・王殷・劉詞・王環・折従阮 雑伝第三十九 - 朱守殷・董璋・范延光・婁継英・安重栄・安従進・楊光遠 雑伝第四十 - 杜重威・李守貞・張彦沢 雑伝第四十一 - 王景崇・趙思綰・慕容彦超 雑伝第四十二 - 馮道・李琪・鄭玨・李愚・盧導・司空頲
旧五代史李襲吉・王緘・李敬義・盧汝弼・李徳休・蘇循 唐書三十七 列伝十三 - 安金全・安元信・安重覇・劉訓・張敬詢・劉彦琮・袁建豊・西方鄴・張遵誨・孫璋 唐書三十八 列伝十四 - 孟方立・張文礼・董璋 唐書三十九 列伝十五 - 張全義・朱友謙 唐書四十 列伝十六 - 霍彦威・王晏球・戴思遠・朱漢賓・孔勍・劉玘・周知裕 唐書四十一
釜茹で殺させて、その遺体を釜茹でにした。その食肉は宴会で諸侯に差し出されたという。 五代十国時代、後唐の将軍の姚洪は反乱軍の董璋(中国語版)に監禁されたが、頑なに降服を拒んだ。激怒した董璋は姚洪の肉を生きながら削ぎとり、大釜でゆでながら喰らったという。ただしこれは後世の創作の可能性が高い。
董和董 和(とう か/とう わ、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。荊州南郡枝江県の人。字は幼宰。子は董允。孫の名は不詳。曾孫は董宏。『三国志』蜀志に伝がある。 先祖は益州巴郡江州県の出身だという。 後漢末期、一族を引き連れて益州へ移住した。劉璋に取り立てられ、牛鞞県長・江原県長・成都県令を歴任した。
朱友讓の仮子。もとの姓は李で、本名は不明(排行で七郎と呼ばれていた)。 元々は汴州の豪商だという。朱全忠にその並外れた商才を認められて、その仮子となった。同時に彼の元の居候となった若者の高季興が優れていたために、仮父の朱全忠の命で、その仮子にしたという。 高季興(後の荊南の武信王) 董璋 孔循 表示 編集