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董宏
ウィキペディアから
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董和
董
和(とう か/とう わ、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。荊州南郡枝江県の人。字は幼宰。子は
董
允。孫の名は不詳。曾孫は
董宏
。『三国志』蜀志に伝がある。 先祖は益州巴郡江州県の出身だという。 後漢末期、一族を引き連れて益州へ移住した。劉璋に取り立てられ、牛鞞県長・江原県長・成都県令を歴任した。
董允
董
允(とう いん)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家。字は休昭。父は
董
和。孫は
董宏
(晋の巴西太守)。『三国志』蜀書に独立した伝がある。 章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位して劉禅を皇太子に立てると、その側近(太子舎人、次いで太子洗馬)として抜擢された。建興元年(223年)、劉禅の即位後は黄門侍郎に任じられた。
哀帝 (漢)
即位した直後、高昌侯
董宏
は『春秋』の『母は子をもって貴し』との故事を引用して、哀帝の実母の丁姫に尊号を贈るよう進言した。しかし、王莽と師丹は、
董宏
が道に外し、朝廷を誤らせるものとして弾劾した。即位したばかりであった哀帝は王莽らに譲歩し、
董宏
傅昭儀
す尊号と親族の尊重を求めるようになった。 それに前後して、
董宏
が哀帝の意を汲み、丁姫を皇太后にするよう上奏した。左将軍の師丹と大司馬の王莽がこれに反対し、
董宏
が不道であると弾劾した。哀帝は即位して間もなかったため、師丹と王莽の意見に従い、
董宏
は庶人に貶された。傅太后は大いに怒り、自らの尊号を求めた。
師丹
と師丹が太子太傅に選ばれた。綏和2年(紀元前7年)に皇太子が即位すると左将軍・領尚書事となり関内侯を賜った。 哀帝の実母の丁氏を皇太后としようという
董宏
の建言に大司馬王莽と共に反対した。王莽が罷免されると師丹が後任の大司馬となり、高楽侯に封じられた。一月余り後、大司空に遷った。