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萌えフォビア(もえフォビア)とは、「萌え絵」そのものや、「萌え」に関連する文物に対する強い嫌悪の感情を言う。マンガ評論家の伊藤剛によって提唱された造語。 医学的に定義された精神疾患としての恐怖症ではない。
2001年9月16日、シンポジウム『網状言論F ~ポスト・エヴァンゲリオンの時代~』が開催され、ここでパネリストとして登壇した伊藤剛は「Pity,Sympathy,and People discussing Me」で萌えフォビアに言及した。この時点では、オタク第一世代が動物化に抵抗するシニシズム(学術的には「自らが内包する感情の否定」だが、伊藤は「萌えている自分からの逃避」と表現)として萌えフォビアを定義している。
また同シンポジウムにおいて、オタク第一世代を自認する竹熊健太郎も伊藤の述べた萌えフォビアを援用して「本気でオタクをしてしまう」新世代のオタクに対するオタク第一世代の距離感を表現しており、上記シンポジウムを書籍化した『網状言論F改』(共著)でも言及されている。
また、月刊シニアビジネスマーケット編集長・玉置泰史のブログ「愛する子どもの守り方」(既に閉鎖)の2005年3月5日のエントリにおいても、萌えフォビア言論が展開された。玉置は第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「おたく:人格=空間=都市」(あるいはその凱旋展)のポスターを見たときの嫌悪について、自己の感情としてではなく社会への悪影響として扱っており、それを好例として伊藤が再び萌えフォビアを、今度はオタク第一世代ではなく一般人の萌えへの嫌悪として考察した。ここでは萌えへの攻撃の理由が理屈ではなく感情であるがゆえに、没論理的になってしまう点が指摘されている。
この言葉が登場した当初は、オタクの第一世代が「単に動物化はみっともないとか『萌え』は恥ずかしいとか萌えてる奴は駄目な奴という物言いだとか、本当は萌えているくせにそれをシニカルに自分から切り離す」ということや、あるいは「『萌えている私』という自己認識からの逃避」という意味で用いられていた[1]。しかし伊藤はのちに「フォビックな振る舞いの現れ方を欲望の「否認」にまで拡張するならば(……)私見では、たとえば幼女の〈ように〉見えるキャラへの「萌え」を、無媒介・無制限に小児性愛であると断じ、社会から排斥しようとする姿勢などにも」萌えフォビアを見出せると述べている[2]。
また伊藤によれば、「萌え」は「『マンガのおばけ』――キャラ図像そのものが持つリアリティ――と、『ウサギのおばけ』――身体を表象することによるリアリティ――の境位に成立する」ものである[3]。こうした観点から、萌えフォビアには「性的な欲望をめぐるフォビア(この場合は、自身が性的な欲望の主体であることへの怯え)」だけでなく、「「マンガのおばけ」が性的な欲望と結び付けられたことに対するフォビア」も含まれるとされる[4]。
上記のように、伊藤はマンガ表現論にもとづいたマンガ読書経験の考察から、萌えフォビアの「心理機制」を論じている。
社会学者の松浦優は、萌えフォビアがトランスフォビアと結びついていると指摘している[5]。松浦によれば、萌えフォビアの背景には、性別二元論的なジェンダー本質主義と、人間との性愛を規範的なセクシュアリティとみなす対人性愛中心主義がある[5][6]。
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