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江戸時代後期の儒学者、漢詩人、文人画家 ウィキペディアから
草場 佩川(くさば はいせん、天明7年1月7日(1787年2月24日) – 慶応3年10月29日(1867年11月24日)[1])は、江戸時代後期の儒学者。佐賀藩多久領出身で、江戸で古賀精里に学び、佐賀藩藩校弘道館教授を務めた。佩川(珮川)は号で[注釈 1]、通称は磋助(さすけ)[1][3]あるいは瑳助[1][4]、名は韡(さかえ)[3][注釈 2]、字は棣芳(ていほう)[3]。漢詩人として知られ、文人画にも優れた。
天明7年(1787年)、肥前国多久町において、多久邑主(領主)である多久氏(佐賀藩重臣)の家臣、草場泰虎の次男として生まれる[3]。幼くして父を失ったが、母に教えられた和歌をそらんじるなど利発に育った[3]。8歳で多久の東原庠舎に入門[6][7]。15歳で東原庠舎の「句読師補」(師に代って素読を教える役目)を務めた[6][8]。
文化元年(1804年)、18歳の時に邑主多久茂鄰(しげちか)の命によって[6]佐賀藩校弘道館に入る[6][8]。この際、師の古賀穀堂(古賀精里の子)から「珮川」の号を与えられた[3](のちに「佩川」に改める[3])。
文化7年(1810年)、23歳の時に多久茂鄰に従って[8]江戸に出、古賀精里に学んだ[5][6][8]。文化8年(1811年)には古賀精里に同行して対馬で朝鮮通信使の迎接にあたる[6]。朝鮮側の使節団と詩文を交わし、文名を挙げている[1]。この時の対馬出張の記録として、画も交えた『津島日記』がある[8]。
文化8年(1811年)に帰郷、多久家の儒官となり東原庠舎に奉職[5][9]。天保5年(1834年)[6]に佐賀藩弘道館教諭となった[5][7][6]。多久家・佐賀本藩の主君の教師となり[8]、また藩士の教育にあたった[5]。また政治にも参画、藩主鍋島直正(閑叟)の信任を受けた[5]。
安政2年(1855年)には昌平黌教授として招聘を受けるも[8]、「老病」を理由として辞退[10]。安政6年(1859年)、73歳で弘道館教授に就任[9]。佩川が教諭・教授を務めた弘道館からは、大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平らが輩出した[6][7]。
文久元年(1861年)致仕[9]。慶応3年(1867年)10月29日死去、享年81。草場船山は長男。墓所は多久市の大古場墓地[11]。
漢詩・画に優れた人物であった[1]。また、清音(中国語)に通じ[13]、武芸にも秀でていたという[7]。著作として『津島日記』[1][6]、詩集に『珮川詩鈔』[1]などがある。文化元年以来の膨大な日記(『草場珮川日記』)を残している[14]。
画は長崎で江越繍浦(父の友人であった[13])を師として沈南蘋の画風(南蘋派)を学び、のちに南宗画に転じて墨竹画を能くした[2]。主君多久茂鄰ら多くの肖像を残しているが、自画像は残しておらず[15]、また他の画家によっても描かれてはいない[15]。
詩は63歳までに「一万五千余首」を賦したといい[16]、広瀬旭荘は『珮川詩鈔』に「真の雅人」と賛辞を記している[16]。
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