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胡 惟徳(こ いとく)は、清末民初の政治家・外交官。清朝と北京政府において外交官、政府高官を歴任する。北京政府では、一時的に代理国務院総理もつとめた人物である。字は馨吾。
上海広方言館で学習した後、1888年(光緒14年)、戊子科挙人となる。1890年(光緒16年)、薛福成に随従して、駐英公使館の翻訳担当学生となり、その後随員に昇格した。以後、駐米公使館参賛、駐ロシア公使館参賛と歴任し、1902年(光緒28年)2月、駐ロシア公使の事務を代行した。同年7月、出使俄国大臣(駐ロシア公使)に正式に昇進した。
1907年(光緒33年)9月、帰国して外務部右丞に任命される。翌年3月、日本へ公使として派遣され、駐在した。1910年(宣統2年)、デン・ハーグの常設仲裁裁判所仲裁人に任命された。同年5月、帰国して外務部右侍郎となる。7月には左侍郎に異動して、幇弁税務大臣も兼任した。1911年(宣統3年)10月、袁世凱内閣の外務部副大臣に任命され、署理外務大臣となった。
1912年(民国元年)3月、税務処督弁に任命され、あわせて唐紹儀内閣の外交総長を兼任した。同年11月、駐フランス公使に任命される。以後、民国3年(1914年)までスペイン公使、ポルトガル公使も兼任した。1920年(民国9年)9月、駐日公使に異動した。1922年(民国11年)6月、職務を解かれて帰国する。9月に外交部太平洋会議善後委員会理事に任ぜられた。
1926年(民国15年)3月、賈徳耀内閣の外交総長に任命され、さらに関税特別会議全権大使も兼任した。4月20日、段祺瑞の臨時執政辞任、賈の総理辞任に伴い、胡惟徳が国務院総理代行となる。同年5月13日までその任を務めた。1927年(民国16年)1月、顧維鈞内閣で内務総長となり、同年6月までつとめた。同年11月、平政院院長及び文官高等懲戒委員会委員長に任じられた。1923年(民国17年)、常設仲裁裁判所仲裁人に再び任命された。
中華民国(北京政府)
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