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耶律羽之(やりつ うし、大順元年(890年) - 会同4年8月11日(941年9月4日))は、遼(契丹)の政治家。字は寅底哂。六院部夷離菫の耶律蒲古只の末裔。
耶律偶思の四男として生まれた。成長すると学問を好み、諸部の言語に通じた。耶律阿保機の建国にあたって、たびたび献策した。
天顕元年(926年)、渤海国が平定され、皇太子耶律突欲が東丹国王に立てられると、羽之は東丹国の中台省右次相となった。1月たたずに左大相の耶律迭剌が死去したため、羽之は人心の安定につとめた。太傅の位を加えられ、東平郡開国公に封じられた。
天顕2年(927年)、太宗が即位すると、羽之は東丹国の民を梁水の地に移すよう上表した。東丹国の中台省左大相に転じた。天顕3年(928年)、東丹国の民を東平に移した。
天顕5年(930年)、耶律突欲が後唐に亡命したが、羽之は東丹国の国人に動揺がないよう尽力した。会同元年(938年)11月、冊礼において通敏博達啓運功臣の称号を受け、特進の位を加えられた。会同3年(940年)6月、東丹国左次相の大素賢の不法を告発した。会同4年(941年)8月11日、在官のまま死去した。享年は52。諡は文恵公といった。会同5年(942年)3月6日、烈峰の南に葬られた。
『遼史』には、和里の名が見える。
墓誌によると、夫人が子10人を生み、諸夫人が子4人を生んだ。娘は4人で、2人は早く死去し、2人は羽之死去時にまだ幼かった。
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