日本語
Sign in
AI tools
トップQs
タイムライン
チャット
Loading AI tools
すべて
記事
辞書
引用
地図
耶律乙辛
ウィキペディアから
Found in articles
道宗 (遼)
弟の孛吉只を皇太叔および天下兵馬大元帥としたが、清寧9年(1063年)7月に孛吉只・涅魯古父子が謀反を起こすと、母后仁懿皇后が中心となって、
耶律
仁先・
耶律乙辛
らに命じてこれを平定した。咸雍2年(1066年)、国号の「大契丹」を改めて「大遼」とした(契丹から遼への改名は2度目)。
耶律濬
耶律乙辛
が北院枢密使となると、
耶律
濬は先行きに不安を抱いた。たまたま護衛の蕭忽古が
耶律乙辛
を殺害しようと計画して発覚し、獄に下された。副点検蕭十三は太子が即位したときには立場がないと
耶律乙辛
の不安を煽った。 太康3年(1077年)5月、
耶律乙辛
は右護衛太保の
耶律
査剌に命じて都宮使
耶律
遼史
耶律
曷魯・蕭敵魯・
耶律
斜涅赤・
耶律
欲穏・
耶律
海里 列伝第四 -
耶律
敵剌・蕭痕篤・康黙記・韓延徽・韓知古・韓匡嗣 列伝第五 -
耶律
覿烈・
耶律
鐸臻・王郁・
耶律
図魯窘 列伝第六 -
耶律
解里・
耶律
抜里得・
耶律
朔古・
耶律
魯不古・趙延寿・高模翰・趙思温・
耶律
漚里思・張礪 列伝第七 -
耶律
屋質・
耶律
吼・耶律安摶・耶律洼・耶律頽昱・耶律撻烈
耶律淳
耶律
淳(やりつ じゅん)は、北遼の初代皇帝。契丹名は涅里(ネリ)。興宗の次男の宋魏王和魯斡の子。文学に長じて巧みだった。 伯父の道宗に可愛がられ、燕王に冊封された。道宗の皇太子で従兄の章懐太子耶魯斡が、宗室の
耶律乙辛
の讒言で21歳で非業の死を遂げた。わが子を失った道宗は甥の涅里を皇太甥に考えてい
宣懿蕭皇后
清寧4年(1058年)、皇后は太子の
耶律
濬を生み、ひとつ部屋で可愛がって育てた。音楽好きであったため、伶官の趙惟一を側近に置いて仕えさせた。太康元年(1075年)11月、宮婢の単登と教坊の朱頂鶴は、皇后と趙惟一が私通していると誣告し、枢密使の
耶律乙辛
がこのことを奏聞した。道宗は
耶律乙辛