米津常春

徳川家の家臣、徳川十六神将の一人 ウィキペディアから

米津 常春(よねきつ つねはる)は、戦国時代から安土桃山時代武将徳川家康に仕え、徳川十六神将の一人に数えられる[4]

概要 凡例米津 常春, 時代 ...
 
米津 常春
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 1524年
死没 慶長17年(1612年11月[1][2]
別名 藤蔵[3][1]
戒名 浄心[3][1]
主君 松平広忠徳川家康
氏族 米津氏
父母 父:米津勝政[1][2]
兄弟 常春政信[1][2]
正勝春親春忠、女子[2]
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生涯

三河国の有力国人松平氏に歴仕した米津勝政の子。自身も13歳より松平氏に仕え、天文18年(1549年安城合戦では自ら槍を取って勇戦する。その後も徳川家康の部将として、永禄3年(1560年桶狭間の戦いの前哨戦である丸根砦攻めでは家康の護衛を務めた。以後も家康の三河平定軍に従軍し、永禄6年(1563年三河一向一揆平定、永禄7年(1564年宝飯郡赤坂の戦いに従軍。生涯で戦功は18度、一番槍13度、手傷73か所を数え、禄高は3000石を領した[3][1][2]。だが若くして目を病み、後年には失明して蟄居した[3]慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは家康に供奉。慶長17年(1612年江戸において没[1][2]

脚注

参考文献

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