竹部 さゆり(たけべ さゆり、旧姓は木村〈きむら〉、1978年6月4日 - )は、日本将棋連盟所属の女流棋士。神奈川県逗子市出身[1](生まれは横浜市[2])。伊藤果八段門下。女流棋士番号は19(2011年3月31日までの旧番号は37)。
イベントなどでの聞き手としての人気も高く[3]、 マイペースで独自の世界観を築いていると評されている[4]。
- 小学校3年の時に将棋道場に通い始めた[5]。
- 1993年、中学生名人戦でベスト8に入り[要出典]、同年10月に奨励会に6級で入会した[2]。同年の夏頃に、女流の碓井涼子、矢内理絵子も奨励会に入会しており、「奨励会3人娘」と呼ばれていた[6]。元奨励会員の天野貴元によれば、竹部は奨励会員としては珍しく奇襲戦法を多く採用していた[7]。
- 奨励会在籍中の1995年4月に女流育成会に入会した後、同年10月に女流2級としてプロデビュー[2]。タイトル挑戦するなど1年半で女流二段にまで昇段した[2]。
- 1996年の第4期倉敷藤花戦で清水市代に挑戦したが、0-2で敗退[8][9]。
- 奨励会では最高クラスは4級まで昇級したが、1998年3月に6級に降級したのち[10]同年5月に降級点Bを喫し奨励会を退会した[11]。
- 2001年に結婚し、女流棋士としての活動名を「木村さゆり」から「竹部さゆり」に変更。
- 2002年の第7回鹿島杯で決勝三番勝負に進出したが、石橋幸緒に1-2で敗退[12]。
- 2007年3月12日から2008年3月31日まで休場した[13]。
- 2022年7月18日の第16期マイナビ女子オープン予選で野原未蘭を相手に、公式棋戦・女流棋戦において史上初となる「入玉宣言法」による敗戦を喫した[14]。野原が「宣言」を行い、連盟職員による確認を経て宣言通り野原の勝利となった(先手・野原の213手目「▲宣言」まで)[14]。その2日後にABEMAの将棋中継に出演した竹部は、当日の状況・心境について「500手まで指せば(持将棋に持って)行けるかもしれないと思って粘っていた」と語った[15]。
- 2023年3月11日にコンピュータ将棋協会の理事に就任した[16]。
- 奨励会員として
- 1993年10月00日 - 関東奨励会 入会(6級)[2]
- 1998年05月00日 - 関東奨励会 退会(6級、最高位4級)[11]
- 女流棋士として
- 1995年04月00日 - 女流育成会入会[2](奨励会 在籍中)[11]
- 1995年10月01日 - 女流2級[2](女流棋士としてプロ入り = 奨励会と重籍)
- 1996年04月01日 - 女流1級[2](第7期女流王位戦 挑決リーグ入り)
- 1996年10月19日 - 女流初段[2](第4期倉敷藤花戦 ベスト4〈タイトル挑戦決定〉)
- 1997年04月01日 - 女流二段[2](第4期倉敷藤花戦 タイトル挑戦)
0(1998年05月00日 - 奨励会 退会[11])
- 2003年05月20日 - 女流三段(勝数規定/女流二段昇段後90勝)[17][2]
- 2019年01月16日 - 女流四段(勝数規定/女流三段昇段後120勝)[18]
日本将棋連盟『平成28年版 将棋年鑑 2016』マイナビ出版、2016年8月1日、571頁。
竹部さゆり (2016年5月9日). “将棋を始めたきっかけ”. 女流棋士会. 2017年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月13日閲覧。
森けい二『里見香奈 イナズマの一手』マイナビ出版、2020年11月27日、45頁。
天野貴元『奇襲研究所 ~嬉野流編~』マイナビ出版、2015年5月23日、137頁。