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福島城(ふくしまじょう)は、摂津国西成郡福島(現在の大阪府大阪市福島区福島付近)にあった日本の城(平城)[1]。福島砦ともいう[2]。
福島城があった福島は、中世初期の頃は大川尻(大川は淀川の上流部分[3])にあたる場所に形成された島だった[1]。福島荘という荘園があり、福島村という村名も中世から見られる[1]。福島は、西隣の野田村(西成郡鷺島荘の一部、現在の福島区野田付近)と共に、度々合戦の舞台となった[4]。
享禄4年(1531年)3月、細川晴元と細川高国の争いの中で、高国方の浦上村宗が野田・福島に陣を敷いているが[1][5][6]、この時、野田・福島に砦が築かれたとみられる[5]。
元亀元年(1570年)7月、織田信長と対立する三好三人衆が野田・福島の砦の補強を行って立て籠もっており(野田城・福島城の戦い)、『細川両家記』には、堀を掘って壁を築き、櫓を建てるなどしたことが記される[5][7]。また『信長公記』によると、野田・福島に籠城した三好三人衆方の軍勢は8,000人ほどだったといい、大規模な城砦が築かれていた様子がうかがえる[5]。
この年の9月、福島城から東に4キロメートルの位置にある本願寺が織田軍への攻撃を開始し、また朝倉氏と浅井氏の軍勢が京都に侵攻したことを受けて、織田軍は野田・福島方面から退いた[8]。しかし、天正4年(1576年)、福島城は織田軍の攻撃により、野田城ともども落城した[5]。その後、野田・福島の地は天正6年(1578年)の木津川口の戦いなどで、織田方の陣地として利用されたとみられる[5]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には、大坂方の大野道犬が福島の五分一に棚楼(井楼か)を築き、野田の新家を守ったという(『西成郡史』)[5][9]。同年11月23日に、幕府軍の攻撃により新家が陥落し、福島も幕府方の手に落ちたとされる(野田・福島の戦い)[5][9]。この時の大野道犬について、福島城に拠っていたともいわれる[10][11]。
野田城については、「城ノ内」という字名が後世に残るなど、その所在地を知る手掛かりがあるが[5]、福島城についてはそうしたものはなく、江戸時代末期に成立[5]の『摂津名所図会大成』にも「其所詳ならず」と記されている[11]。
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