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日本の経営戦略コンサルタント ウィキペディアから
矢矧 晴一郎(やはぎ せいいちろう、1929年12月1日(94歳)- )は、日本の経営戦略コンサルタント[1]。起業家。矢矧経営研究所代表[2]。
アメリカのボストン・コンサルティング・グループ[1]で経営戦略を身につけ、日本で草分け的存在の経営戦略コンサルタント[1]となる。経営資源配分戦略等の戦略技法、YS法等の意思決定技法等を数多く考案し、著書は200冊を超える[1][2]。
東京生まれの東京育ち。東京都台東区の黒門小学校を卒業後、慶應義塾普通部に入学。慶應義塾高等学校から慶應義塾大学へ進み経済学部を卒業[3]。大学では千種ゼミナールで理論経済学を専攻。
1951年、富士銀行に入行。本店、新橋支店、三田支店、調査部、業務部などを歴任。富士銀行に17年勤務。1965年に最初の著書「世界の銀行」を出版。1969年、ボストン・コンサルティング・グループに入社。日本支社、ボストン本社を経て帰国し日本支社に戻る。
1980年に独立して株式会社矢矧コンサルタントを設立。独自に考案した経営戦略と判断法により顧客を開拓。大手企業を顧客として企業ビジョン、経営戦略、経営計画の策定を行った。企業の方向付け、企業体質改革、多角化、新事業育成などを中心としてコンサルティングを行った。
社長を務めながら公職を歴任。官庁は当時の名称で通産省[2]、郵政省、運輸省、文部省、大蔵省、法務省、厚生省などの委員長・委員・講師。団体は社団法人パーソナルコンピュータユーザ利用技術協会の役員など。大学は慶應大学、早稲田大学、一橋大学の講師[2]。
1996年株式会社矢矧経営研究所を設立[2]。情報化への貢献により、通商産業大臣賞を1996年に受賞。韓国旧財閥系企業より、経営指導および会社発展の貢献により感謝牌を受けた。
小学生のころは、病気がちで気が弱かった。いじめにあい、「体力では勝てないが、知恵で勝とう」と決心した。中学生の時に東京大空襲で家が焼けた。戦後まで苦しい時期を過ごした。入社一年目に結核の手術を3回。体力・気力が衰えて意識を失ったが回復。 以後は第二の人生として「全原因自己改革」を実践。
多芸多才。高校三年生のときに、汎用上達法を考案して、自己啓発に応用してきた。ITへの興味関心も持ち、日本人のパソコンとインターネットの利用では先駆者である。音楽は作曲、作詞、訳詞、演奏、編曲、重ね録音を一人でこなす。1985年頃からDTMに親しむ。パソコンを使い絵画・アニメの制作も行う。
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