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三重県桑名市にある寺院 ウィキペディアから
桑名別院本統寺(くわなべついんほんとうじ)は、三重県桑名市にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。本尊は阿弥陀如来。別称は桑名御坊や今寺。地元では桑名の御坊さん(くわなのごぼうさん)と呼ばれ親しまれている。
境内には松尾芭蕉「野ざらし紀行」跡冬牡丹句碑があり、1968年(昭和43年)2月20日にはこの句碑が桑名市指定文化財に指定された。東側には桑名別院本統寺に由来する寺町通り商店街がある。
元亀から天正にかけて、大坂本願寺と織田信長は、後に本願寺十年戦争(石山合戦)といわれる騒乱の中で幾度となくぶつかり合っていた[1][2]。当時、伊勢国、尾張国、美濃国の三国の水陸の交通の要所であった桑名の地は、長島一向一揆をはじめとする真宗の一大法難の時期に直面していた[1][2]。本願寺第11代顕如は、この桑名(当時の地名は三崎〈みさき〉)に「今寺」(いまでら)と称する一宇の坊舎を開創し、本山との連絡や種々の法務、非常時の協議集合の拠点とした[1][2]。
その後、争乱が終結した慶長元年(1596年)、第12代教如が「今寺」を本願寺の禄所(ろくしょ)として取り立てたのが桑名別院のはじまりである[1][2]。当別院の開基は教如の娘の長姫であるが、女性が開基である別院は全国でも珍しい[1][2]。開創当時、長姫は9歳であったため、実際には、小松(現・石川県小松市)勧帰寺の玄誓が寺務を執った[1][2]。第2代に、宣如の兄弟である寿量院宣慧を迎え、寺号を寿量院と号した[1][2]。第3代には琢如の兄弟である慧浄院琢慧を迎え、順次継承された[1][2]。慶安2年(1649年)5月4日には、宣如が教如の考えに基づき、「我が正当の血統の寺」という意味で名付けた「本統寺」へと改称された[1][2]。延宝年間(1673年~1681年)、失火により悉く諸殿を焼失するも、山田彦左衛門の一寄進により、壮大な八棟造りの本堂はじめ、対面所、書院等が復興された[1][2]。
しかし、これらの諸殿も1945年(昭和20年)7月の、二度にわたる桑名空襲により、灰燼に帰した。唯一戦火を免れたのは、境内に現存する親鸞の銅像であるが、その親鸞像の笠を下から見上げると焼夷弾が貫通してできた小さな穴を見ることができる[1][2]。戦災によって多大な被害を受けた当別院であるが、門末の法義篤く、本堂は京都府の時宗寺院より、山門および鐘楼堂、南北門は大阪府の八尾別院より、庫裏は岐阜県海津市の豪農菱田氏より譲り受け、1950年(昭和25年)に復興された[1][2]。
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