田村宗良
日本の江戸時代前期の大名。陸奥仙台藩2代藩主伊達忠宗三男で、仙台藩国家老鈴木重信養子。後に田村氏の名跡継承し、田村氏27代当主。陸奥岩沼藩初代藩主。従五位下右京亮・隠岐守 ウィキペディアから
日本の江戸時代前期の大名。陸奥仙台藩2代藩主伊達忠宗三男で、仙台藩国家老鈴木重信養子。後に田村氏の名跡継承し、田村氏27代当主。陸奥岩沼藩初代藩主。従五位下右京亮・隠岐守 ウィキペディアから
田村 宗良(たむら むねよし)は、江戸時代前期の外様大名。陸奥国岩沼藩の初代藩主。田村家27代当主。官位は従五位下・右京亮、隠岐守。
寛永14年(1637年)4月19日、陸奥仙台藩の第2代藩主・伊達忠宗の三男として誕生した[1]。寛永16年(1639年)、父の命で1,500石の仙台藩の重臣・鈴木元信の家系である鈴木家の名跡を継ぎ、志田郡大崎を治めた[1]。慶安2年(1649年)に元服して鈴木宗良と名乗る。
承応 元年12月18日(1653年1月17日)、忠宗の生母である田村家出身の陽徳院(祖父・政宗の正室、愛姫)の遺言により田村家を再興し、栗原郡岩ヶ崎に1万石を与えられる。万治3年(1660年)に仙台藩主に幼少の伊達綱村が就くと、綱村より2万石加増され、同年12月に従五位下、右京亮に叙任された。また、伊達宗勝と共に綱村の後見となった。寛文2年(1662年)、名取郡岩沼に転封され、内分分知大名として岩沼藩の初代藩主となった。和歌や書をなし、人柄は温和であり人望を集めたが、気弱な一面もあったため才気活発な宗勝による専横を許すことになった。寛文10年(1670年)に隠岐守に叙任される。
寛文11年(1671年)、伊達騒動(寛文事件)に際して指導的役割を果たすことが出来ず、江戸幕府の命令によって連座処分により閉門に処された。寛文12年(1672年)に罪を許された。
父母
正室
子女
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