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日本の小説家 ウィキペディアから
(かり きゅう、1922年2月10日 - 1977年10月12日)は日本の小説家。
本名は市橋
療養所生活中の1951年 (昭和26年)、推理小説雑誌『別冊宝石』の短編懸賞部門に『落石』と『氷山』を投稿、そのうちの『落石』が優秀5作の1つに残った[2]。 両作品は同年12月に『別冊宝石』で発表された[1]。1953年 (昭和28年) からは自宅療養に変わり、以後本格推理ものや官能サスペンスなど多数の作品を執筆した[2]。感覚的な文体とサスペンス性に優れた作品を書き[1]、特に作品内に作家狩久が登場する私小説的な手法が特徴的な作家だった[2]。
この時期には、作家活動と同時に「関西鬼クラブ」(後のSRの会) の東京支部を主宰した他、梶龍雄や鮎川哲也らと親交を深め、同人雑誌『密室』に作品を発表した[2]。
1958年 (昭和33年)、あまとりあ社から短編集『妖しい花粉』を刊行したが、その後外国映画のアテレコ台本の翻訳などテレビの仕事が忙しくなり 1962年 (昭和37年) までに約100本の短編を書いて一旦筆を折った[2]。
その後は、PR映画・CM映画の企画・制作に従事していたが[1][2][3]、1975年 (昭和50年) に小説の執筆を再開した[2]。十数年ぶりに発表された作品は推理小説ではなくSF小説『追放』で、『幻影城』に公表された[1]。翌1976年 (昭和51年) には初の長編作品である官能的な小説『不必要な犯罪』を刊行するなどしたが[2]、その後間もない1977年 (昭和52年) 10月12日、肺癌により死去した[1]。享年55歳。亡くなるまでに第2長編の『裸舞&裸婦奇譚』を書き上げたが[2]、長きにわたって未刊行だった。
泡坂妻夫によると、泡坂の非常にトリッキーな中編小説『生者と死者 酩探偵ヨギ ガンジーの透視術』のアイディアは狩久が最晩年になって思いついたものだったという[4]。きっかけは雑誌『幻影城』の編集長だった島崎博が出したフランス装の本だったという[4]。狩久はそのために特別製の原稿用紙を注文したとのことだが、間もなく狩久は亡くなってしまったので事実上手つかずになったようである[4]。『しあわせの書 迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術』が完成した後、担当だった編集長に酒席でうっかりこのことをしゃべったために泡坂は『生者と死者 酩探偵ヨギ ガンジーの透視術』を執筆しなければならなくなったとのことである[4]。
2013年 (平成25年) に全集が刊行されているが、それ以前に文庫本などに収録された作品として以下のようなものがあげられる。
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