耶律希亮里城、至西涼甘州。阿里不哥遣大将阿藍答児自和林帥師至焉支山、希亮見之。阿藍答児問『而父安在』。希亮曰『不知、与吾父同任事者宜知之』。渾都海怒、詬曰『我焉得知之、其父今亡命東見皇帝矣』。希亮曰『若然、則何謂不知』。阿藍答児熟視渾都海曰『此言深有意焉』。詰希亮甚急、希亮曰『使吾知之、亦従而去、安得独留』。阿藍答児以為実、免其監蒞」
焉耆焉耆国の民衆から焉耆王になるよう頼まれたので(焉耆国の民衆の中には以前、高車によって高昌から移住させられた胡人たちがいたため)、その次男を派遣して焉耆王として焉耆国を統治させた。 北周の保定4年(564年)、焉耆王は遣使を送り、名馬を献じた。 大業年間(605年 - 618年)、焉耆王の龍突騎支(中国語版)は遣使を送り、隋に朝貢した。
祁連山脈Qilian Mountains)は中国の主な山脈の一つ。青蔵高原(チベット高原)の北縁、甘粛と青海に跨り、西はアルチン山脈に接し、東は蘭州の興隆山に至り、南はチャイダム盆地と青海湖に相連なる。山脈は西北から東南へ走り、数条の平行する山脈よりなり、平均海抜4000m以上、長さ2000km、幅20
西域ったことから、西州都護の郭孝恪はこれを撃つべく上書し、許可が下りたので、軍を焉耆王の弟の龍栗婆準に誘導させて焉耆王の龍突騎支を捕えた。郭孝恪は龍栗婆準に功があったということで、彼に焉耆国の国事を摂らせて帰還した。しかし、焉耆国は龍栗婆準の従父兄の龍薛婆阿那支を立てて王とし、西突厥の処般啜が龍栗婆準
禹『太平広記』「有巫山焉,峰岩挺抜,林壑幽麗,巨石如壇,留連久之。時大禹理水,駐山下。大風卒至,崖振谷隕,不可制。因与夫人相値,拝而求助。即勅侍女,授禹策召鬼神之書,因命其神狂章、虞余、黄麾、大翳、庚辰(応竜)、童律、巨霊等助禹,斫石疏波,決塞導阨,以循其流」 ^ 『山海経広注』「『岳瀆経』曰:堯九年,無支祁為孽,応竜駆之淮陽亀山足下,其後水平」