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瀧脇 信廣(たきわき のぶひろ、1865年6月13日(慶応元年5月20日) - 1913年(大正2年)10月26日[1][2])は、明治時代の子爵。遠江相良藩田沼家第12代当主、のち駿河小島藩滝脇松平家第13代当主。初名・伊達 忠千代(ただちよ)、旧名・田沼 忠千代。
伊予宇和島藩主伊達宗城の六男として生まれる[3]。田沼家から離縁した意斉に代わり1873年(明治6年)12月に当主となった田沼意尊の長女・智恵と、1874年(明治7年)11月に結婚して田沼家当主を継承するが、1878年(明治11年)6月に離縁(その後再び当主となった智恵は伏原宣諭の子・望と再婚する)[4]。
その後、1888年(明治21年)滝脇信成(小島藩第8代藩主松平信賢の二男で、同藩第11代藩主滝脇信敏の養子)の養子として迎えられ[1]、1889年(明治22年)2月に滝脇家を継いだ。宮崎利央の長女・鏞子を後妻として迎え、1893年(明治26年)3月には長男・信鑰(のぶかね)が誕生した[2]。
病のため1913年(大正2年)に逝去[1]。跡を継いだ信鑰も10年後の1923年(大正12年)4月に隠居し、古市公威の四男・宏光を養嗣子に迎えて当主を継承させ、自身は分家した[2]。
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