Loading AI tools
1000-1047, 平安時代中期の公卿。源俊賢の子。官位は従三位・権中納言。法名は円照、号は横川。勅撰集『後拾遺和歌集』以下に4首入集 ウィキペディアから
源 顕基(みなもと の あきもと)は、平安時代中期の公卿。醍醐源氏高明流、権大納言・源俊賢の子。官位は従三位・権中納言。後一条天皇の側近として仕えた。
寛弘8年(1011年)従五位下に叙爵し、長和2年(1013年)侍従・右兵衛佐に任ず。
長和2年(1013年)に左大臣・藤原道長が賀茂社に詣でた際にはこれに参じている[1]。長和3年(1014年)左近衛少将に任ぜられる。長和4年(1015年)従五位上・備前介に叙任。
長和5年(1016年)正五位下に叙される。同年2月に後一条天皇が即位すると、顕基は天皇に信頼され、寛仁2年(1018年)に従四位下に叙され、播磨介、周防権介、右近衛中将を歴任。治安3年(1023年)従四位上に進み、蔵人頭に補され、左近衛中将に転じる。さらに長元2年(1029年)従三位・参議に叙任され公卿に列し、長元8年(1035年)権中納言に至る。
この間の治安4年(1024年)には顕基の従者が源資通の従者と闘乱を起こしたため勘事に処されている[2]。また、長元元年(1028年)に顕基の従者が盗人に射殺されている[3]。
長元9年(1036年)に後一条天皇が29歳で崩御すると、それに伴って出家した。永承2年(1047年)9月、48歳で薨去した。
『十訓抄』には、後一条天皇が崩御した際に顕基は、「忠臣二君に仕えず」として出家してしまったという逸話がある。また、『徒然草』によれば顕基は無罪ながら流罪にされたという。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.