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日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将。豊臣秀長家・小早川家・浅野家の家臣。紀伊亀山城主湯川直春長男で、湯川氏14代当主 ウィキペディアから
湯川 勝春(ゆかわ かつはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。湯河直春の子で、紀伊和歌山藩・安芸広島藩の浅野家に仕えた。通称は太郎五郎、丹波(丹波守)[2]。名字は「湯河」とも書く[2]。また、諱は光春(みつはる)ともされる[3][4]。
元亀3年(1572年)、紀伊国日高郡小松原(現在の和歌山県御坊市)を本拠とする国人・湯河直春の子として生まれる[2]。
父・直春は、天正13年(1585年)の紀州征伐で豊臣秀吉に抵抗した後、和睦し、翌天正14年(1586年)に死去した[5]。直春が没すると勝春は豊臣秀長に仕え、3,000石の知行を与えられた[6]。
その後、小早川秀秋に仕えて800石を領し[7]、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに西軍として参加した後、牢人となった[8]。
慶長年間、勝春は浅野幸長により700石で召し抱えられ[2]、名を太郎五郎から丹波に改めた[1]。浅野長晟に従って安芸国広島へと移り[1][7]、宮奉行を務めたとされる[9]。
勝春の跡は子の政春が継ぎ、浅野光晟に仕えて500石の禄を受けた[1]。それ以降も湯川氏は浅野家に仕え、政春の後は、春忠、師春、師行、春興、春久、栄次郎、徳之丞(120石、文久3年〈1863年〉に家督継承)と続いた[1]。
また、勝春の弟である春安の子の春種(勝春の甥)も、慶長6年(1601年)に浅野幸長に仕えた[1]。春種は安芸入国の際に勘定奉行を務めるなど、重用されたという[1]。
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