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淺山一傳流体術(あさやまいちでんりゅうたいじゅつ、新字体では浅山一伝流体術)とは、大倉直行が伝えた体術の流派である。
流祖は浅山三五郎(浅山一伝斎)である。
明治時代に十三代を名乗る大倉直行が文京区で教授していた。
大倉直行は会津出身で1871年(明治4年)に生まれたとされる。大倉直行は庶子であったため幼少の頃に母方の大倉家に預けられた。父親は家老職であるとされるが、大倉は庶子であるため父親の名を語ることができなかった[1]。
大倉直行は、叔父の田中タモツ[注釈 1]から剣術を母親から体術を学んだ[2]。
また水府流の泳法[注釈 2]や馬術なども修得した。田中が渡台中に他界したため浅山一伝流体術第十三代目となった[3]。
明治末に文京区白山御殿町に十畳くらいの広さの道場「武徳館」を開設し昭和10年代まで活動していた。大倉直行の武徳館では体術、居合、棒、逆取短棒を門弟の適正に合わせて教えており、体術は修行の段階により5級~1級を定め免許状として地之巻を授けた[3]。
大倉直行の以降は坂井宇一郎、永沼経行の2人の高弟の系統に分かれて伝承されていった。永沼経行からの伝を受けた上野貴は、自身が創作した神道天心流の体系に浅山一伝流体術を採り入れ、多くの門人にこの技を伝えたので戦後に広まった。坂井宇一郎の系統は、大倉伝浅山一伝流体術という名称で活動している。
坂井宇一郎は1912年(大正元年)に大倉直行の高弟小林義忠が開いていた潜龍館に入門した。小林は実戦経験豊かな人であったが酒豪であり、それが原因で道場の後援者が去ってしまい潜龍館の門を閉めることとなった。1918年(大正7年)坂井宇一郎は小林の紹介で武徳館を開いていた大倉直之に入門した[3]。
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