浅井政高
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略歴
実父は不明だが、家譜によれば、田屋明政の甥だという。その明政の婿養子となって、その娘(海津局)を妻とした。
初めは生田姓、後に田尾姓を経て、浅井姓を称した[要出典]。
慶長20年(1615年)、大阪夏の陣における落城に際し、大坂城内で討ち死にした。享年55。
子の直政は海津局と千姫に従って城を脱出し、浅井姓を捨て外戚の三好姓に改めて三好直政を名乗り、江戸幕府で将軍徳川秀忠に仕えて御小姓番士となり、月俸百口となる。孫の三好政盛は徳川家光の小姓として愛され、二千石の厚遇をえて、旗本・三好家の祖となった。直政の室は明石全登の娘。
参考文献
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、990頁 。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、25頁。ISBN 4404017529。
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